2016年4月15日金曜日

戦いは常に痛快だった

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NumberWeb  2016/04/12 07:00
パッキャオの戦いは常に痛快だった。
遂に引退した「英雄」の壮絶な歴史。
史上2人目の6階級制覇よりも、そのファイトスタイルこそがファンの心を掴んだ。パッキャオこそはまさに“記憶に残る”ボクサーだった。
 ボクシング界にセンセーションを巻き起こしてきたマニー・パッキャオ(フィリピン)が4月9日(日本時間10日)、米ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナで、過去1勝1敗のティモシー・ブラッドリー(米)と対戦。3-0判定勝ちを収め、リング上から「家族とフィリピンのためにこれで辞める」とかねて表明していた通り引退を宣言した。
 1年前の“世紀の対決”フロイド・メイウェザー(米)との試合後、右肩を手術したパッキャオは11カ月ぶりのリングで復調ぶりが心配された。実際のところ、試合開始直後は動きが硬く、ブラッドリーのスピードについていけないのではないか、と思わせた。
 しかし、2回以降はサウスポースタイルから得意のワンツーを打ち込んで会場を沸かせ、徐々にペースをつかんでいく。7回に奪ったダウンはスリップ気味だったが、9回にはアッパー気味の左を決めて、ブラッドリーがキャンバスに一回転。結局、7年ぶりのKOとはいかなかったものの、見せ場を作った上での勝利で有終の美を飾った。
 およそ1年ぶりの試合ということを考えれば、パッキャオのパフォーマンスは悪くなかったと思う。本人が「肉体的にはまだやれる」と語ったように、いまだトップ級の実力を保持していると言えるだろう。ただし全盛期のようなキレ、世界中を沸かせた豪快なステップインはもはや望むことはできない、と感じたのも事実だ。

デラホーヤの前座としてスター街道は始まった。
 若かりし日のパッキャオを知る者で、この若者がボクシング史に大きな足跡を残し、世界中のファンに惜しまれながら引退すると予想できた人はいただろうか。フィリピンの貧しい農家の四男としてこの世に生を享けたパッキャオは、20歳になる直前に初の世界タイトル(WBCフライ級)を獲得し、V2戦の前日、契約体重を作れずにあえなく王座を失った。
 アジアの片隅に生息する世界的に無名の元軽量級王者。そんなパッキャオが“グレート”への第一歩を踏み出したのは2001年6月のことだ。最終戦と同じラスベガスのMGMグランドで行われた当時の大スター、オスカー・デラホーヤの世界タイトルマッチの前座にピンチヒッターで登場し、2階級制覇を達成したのが始まりだった。
 そして'03年、メキシコの実力者、マルコ・アントニオ・バレラとの試合で勢いが加速する。不利と言われたバレラ戦に快勝すると、その後はフェザー級、スーパーフェザー級を主戦場として、フアン・マヌエル・マルケス、エリック・モラレス、そして再びバレラとメキシコのビッグネームと激戦を繰り広げ、グングンと評価を高めていった。

大胆に階級を上げ、史上2人目の6階級制覇。
 彼らとの壮絶なバトルにケリをつけたパッキャオは、ここから大胆に階級を上げていく。キャリア中盤のクライマックスは、'08年のデラホーヤ戦だ。フェザー級あたりが適正階級と思われたパッキャオと、ミドル級でもタイトルを獲得した6階級制覇王者のデラホーヤ。ボクシングが階級制スポーツである以上「無謀なマッチメーク」という批判の声が上がったのは当然のことだった。
 ところがあろうことか、ウェルター級で行われた試合で、パッキャオはデラホーヤを一方的に叩きのめしてしまう。パッキャオがボクシング界の常識を覆し、真のスーパースターになった瞬間だった。
 この後も快進撃は続き、英国の人気世界王者リッキー・ハットン、プエルトリコの英雄ミゲール・コット、メキシコのタフネス、アントニオ・マルガリートらを次々に撃破。マルガリート戦ではWBC世界スーパー・ウェルター級王座を獲得し、史上2人目となる6階級制覇を達成した。振り返れば、このあたりまでがパッキャオの全盛期だったと言えるだろう。
 '15年5月に行われた“世紀の対決”フロイド・メイウェザーとの一戦は、その内容はさておき、総額480億円を売り上げたとも言われ、史上最もリッチな試合としてスポーツ史に記録された。

いつも単純明快にして痛快だったパッキャオの試合。
 パッキャオの魅力は、何と言ってもその攻撃的なボクシングにあった。代名詞とも言える鋭い踏み込みは、リングの中央からロープ際まで一瞬にして到達するかのようだった。躊躇なく豪快な左を振り抜き、タフな実力者たちを面白いようにキャンバスに転がした。
 同時代に君臨したメイウェザーやヘビー級のクリチコ兄弟の試合が必ずいくばくかのストレスを残すのに比べ、パッキャオの試合はいつも単純明快にして痛快だった。胸のすくようなファイトが世界中のファンを魅了した。

日本人ボクサーにとっても、特別な存在だった。
 中でも、日本での人気は高かった。それは日本人にとって、パッキャオが身近で親しみの持てる存在だったからだと思う。我々が慣れ親しんだ東洋太平洋王座を獲得し、世界的には“場末”とも言えるような後楽園ホールのリングにも上がったことがある。
 日本人とさして変わらない体格、さして変わらない風貌のパッキャオが、まばゆいばかりのラスベガスのリングで戦う姿に、多くの日本人ファンが勇気づけられた。とりわけ日本のボクサーに絶大な影響を与えた点は特記すべきことだと思う。

「ラスベガスで試合がしたい」
 海外からは内弁慶と言われがちな日本人ボクサーが、次々とそのようなセリフを口にするようになった。一昔前なら考えられなかったことである。
 我々はもうパッキャオの新たな試合を目にすることができない。仮に復帰するとしても、それは残念ながら多くの人々の脳裏に焼き付いている、あのパッキャオとは似て非なるものであろう。これからは第2のパッキャオの出現を心待ちにしたい。それが日本選手かもしれないという大きな期待を込めて。

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