東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】「夢を追いかけるボクサー」の〝大義名分〟が欲しかっただけ 2022年08月08日 16時00分
拓大時代の八重樫がプロ転向を決意
【八重樫東氏 内気な激闘王(7)】劣等感をバネに生きてきた僕にとって、拓大時代の4年間はプロボクサーとしての基礎が完成し、逆襲人生への足がかりになる時期だったと思う。大学3年生になると、練習後の洗濯、掃除、電話番という下級生の雑用も終わり、都内のボクシングジムへ出向いて一流プロ選手とスパーリングを行った。
ジムに顔が利くアマの関係者が仲介し、プロ側とアポイント。日本王者や世界王者と拳を交える絶好の機会を得た。当時はプロとアマの間には大きな壁が存在した。今みたく簡単に交流できなかったため、拓大の監督に「風邪をひきました」とウソをついて練習を休み、お忍びでジムへ通った。まさに“道場破り”のようなスパーリングだったが、先輩らが「ドンドン行ってこいよ」と後押ししてくれたのは今も感謝している。厳密にはルール違反だったが、もう“時効”ということでご容赦願いたい。
プロとアマは実力差があって練習にならないと思われがちだが、トップクラスのアマは3ラウンドくらいならプロに負けないスピードがある。僕が大学4年当時(2004年4月~05年3月)は、多くのチャンピオンたちとスパーリングした。WBA世界ミニマム級王者だった新井田豊さん、WBC同級王者・イーグル京和さん、WBC世界スーパーフライ級王者の川嶋勝重さん、昨年亡くなられた星野敬太郎さん…。ジムを転々としながら「一流の拳」を肌で感じ、刺激をもらった。精神的には「アマだから負けて当然」とノビノビでき、かといって一方的にやられる展開でもなかった。半信半疑ながら「意外とプロでも通用するかも」と、かすかな希望も芽生えていた。
周囲が就職活動を始めるころ、僕は「サラリーマンにはなりたくない」との一心だった。そして大好きなボクシングを続けるためにプロを志した。もちろん「世界王者になってやる!」といった野望など全くない。プロボクサーになれば「あいつは就職もしないでフラフラして…」と後ろ指をさされない。つまり「夢を追いかけているボクサー」という“大義名分”が欲しかっただけ。プロが目前に迫り、自信をつけながらも、幼少期から抱えてきたコンプレックスはまだ僕の中に残されていたようだ。
声をかけてくれたのはワタナベジム、大橋ジム、角海老宝石ジム、横浜光ジム。当時、大橋ジムは川嶋さんが世界王者に君臨していて勢いがあり、僕が目指していた技巧派タイプの松本好二さんがいたのは魅力的だった。でも、横浜光ジムには同じ階級の新井田さんがいて、一緒に練習すれば強くなれると思っていた。どこへ行くべきか? 悩んでいた時、一本の電話によってあっけなく僕の運命が決まった。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】スカウトしてきた大橋会長は僕の試合映像を見たことなかった 2022年08月09日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(8)】 運命ってこんなにあっけなく決まるのか。拓大ボクシング部4年生の僕は「サラリーマンになりたくない」という一心でプロを目指し、複数のジムから誘いを受けていた。最終的に横浜光ジムと大橋ジムの「2択」で悩み、2004年夏に中洞三雄コーチ(現拓大監督)に相談した。
すると突然、中洞さんは携帯電話をかけて「ウチの八重樫がお世話になるから。頼むよ!」と言って切った。なんと大橋秀行会長に“直電”したのだった。日本代表のコーチだった中洞さんは専大時代の大橋会長と接点があったという。「あいつなら信用できる。大橋ジムに行け」と一方的に言われ、あっさりと進路が決定した。僕はむしろホッとしていた。こうでもしないと自分の意思では決められない。流れに身を任せ、人に委ねる人生も悪いもんじゃない。
こうして大橋ジムに所属することになった。契約金があったかどうかは覚えていない。ただ、後で聞いたところによると、大橋会長は僕の試合映像を一度も見ず、他ジムの会長の評判だけで僕をスカウトしたらしい。「お前を見たことなかったんだけどなー」と笑っていたが、会長のおかげで僕は最高のボクシング人生を送ることになる。
同級生たちは次々と企業への内定が決まったが、僕は将来的な保証が一切ない。それでも全く不安はなかった。要するに僕はバカだった(笑い)。自分の趣味に見切りをつけず、かといって「チャンピオンになる!」という大きな野望を抱くわけでもなく、単にボクシングが好きなだけでプロの世界に飛び込んだ。
05年3月26日、ミニマム級でプロデビューの日を迎えた。前夜は緊張で全く眠れなかった。布団に入って目を閉じても自分の心臓の鼓動がうるさくて眠れない。アマチュア時代にはなかったことだ。結局、ほとんど寝ないまま朝を迎えることになった。試合前、ミット打ちをしようとすると、自分の精神的支柱だった松本(好二)トレーナーが病気のためミットを持てないことを知った。誰が持ってくれるのかと不安になっていると、見たことがない体の大きな男の人がやって来て「オレが持ってやるよ」と声をかけてくれた。その男の正体は佐久間史朗さん。元WBA世界ミニマム級王者・星野敬太郎さんを支えた名トレーナーで、その時が初対面だった。状況をのみ込めないまま、とにかくミットをバンバン打った。睡眠不足に加えて、初めて会った人とミット打ち――。ある意味「なるようになれ!」と開き直ることができた。
控室から出て花道へ向かうと入場曲が流れた。その瞬間、体に電流が走った。プロの試合って、こんなに楽しいのか!
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】デビュー戦に快勝 リング上でベロ出しした自分はまるで別人 2022年08月10日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(9)】 2005年3月26日、記念すべきプロデビュー当日は波乱の連続だった。前夜は緊張でほとんど眠れず、試合会場では精神的な支えの松本(好二)トレーナーが病気でミット打ちできないハプニング…。ある意味、なるようになれ!と開き直れることができたが、入場曲が鳴った瞬間、すべての不安が吹き飛んだ。
大学の友人に薦められた入場曲「Move on」に乗って花道を歩き出した時の爽快感は生涯、忘れることができない。アマチュアでは絶対に味わえない感覚。プロの入場ってこんなに楽しいか!と感激し、リングに上がった時にはすっかり有頂天になっていた。
ゴングが鳴って試合が始まると驚くほど冷静になれた。プロの8オンスのグローブが怖かったのでパンチをもらわないように集中していると、流れの中で奇麗な左フックが決まった。1ラウンド(R)1分20秒、KO勝ち。倒しにいったわけでもなく、本当に自然にパンチが当たった。人ってこんなに簡単に倒れるのか…と驚いたことをよく覚えている。だが、その時の心境は「うれしい」ではなく「負けなくてよかった」。プロ入り時の前評判がそれなりに高かったため、しょっぱい判定勝ちだけは避けたかったからだ。
勝った瞬間、リング上でベロを出して喜んでいる映像が残っているが、なぜあんなことをしたのか自分でもよく分からない。恐らく興奮していたのだろう。リング上は唯一、自分の本性を発揮できる場所。小さいころから内向的だった僕がひそかに抱いていた闘争心が表に出たのだと思う。普段の僕を知っている人はビックリしただろう。今振り返っても、あの時にリング上にいた自分はまるで別人だった。
デビュー戦を快勝した僕は、その後もコンスタントに勝っていった。勢いに任せてポンポンと3連勝し、4戦目のフィリピン人と初めて10R(判定勝ち)を戦った。アマは3R、プロ3連勝もすべて2R以内の決着だったため、初めて経験する長時間の試合。とても疲れ、ダラダラとつまらない内容だった。試合をしながら会場(横浜文化体育館)がシーンとなっているのを感じ、お客さんはつまらないだろうなと思っていた。
メリハリのない試合を経験した僕はすぐに反省した。これからは1R3分の中で「波」を構築し、それを12回繰り返さなければいけない。意図的に試合のヤマ場を作り出すのだ。そう心がけて練習に取り組むと、いきなり次の試合で成果が出た。06年4月3日、デビュー5戦目の東洋太平洋ミニマム級王座決定戦。自分の頭で戦術を考え、プロボクサーになって最もうれしい瞬間を迎えた。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】「はじめの一歩」宮田一郎のベルトと「一緒だ!」同じデザインに大興奮 2022年08月12日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(10)】プロボクサーを志した時は「世界王者になってやる!」という野望は一切なかった。コンプレックスを抱えて生きてきた僕は、何をするにもハードルは低い。とりあえず、何かのベルトさえ取れれば…くらいのモチベーションだったので、デビュー5戦目(2006年4月3日)に東洋太平洋ミニマム級王座のベルトを取った時はすごくうれしかった。
結果は5ラウンド(R)KO。4戦目(10R判定勝ち)にダラダラした試合をしてしまったので、僕は1Rの中で波をつくり、抑揚をつけることを心がけた。平坦な試合にはせず、随所にテンポアップさせて攻撃を仕掛けて試合を組み立てたら5Rに「山」が来た。流れの中で出したパンチが当たって、相手が倒れた。つまらない試合をしてしまった4戦目の反省をきっちり生かし、勝つことができた。
勝利の直後「これでプロになって最低限の証しを残せたな」と安堵した。自分が年を取って「オレ、昔プロボクサーだったんだ」って誰かに話す時、やっぱり何らかの証しが欲しかった。日本王座でも地域王座でもいいから「ベルト」さえ手にすれば、胸を張って「ボクサーだった」と言える。だから「次は世界のベルトだ!」なんていう大きな夢はなかった。
実際にリング上でベルトを見た時の気持ちは今も鮮明に覚えている。この試合は決定戦だったのでベルトの現物がなく、トレーナーの松本(好二)さんが用意してくれた東洋太平洋ベルトを一時的に借りた。デザインが漫画「はじめの一歩」の宮田一郎が腰に巻いていたものと同じで「おお、一緒だ!」とかなり興奮していた。だが、実際は不自然なくらい余裕ぶっていた。興奮したり必死になっている姿がカッコ悪いって考えるのは若いころにありがち。だから僕はひょうひょうとして、自分を大きく見せようとしていた。内心とは全く逆だ。そういう意味でもまだ若かったと思う。
会場(横浜文化体育館)には黒沢尻工高(岩手)ボクシング部の同期が応援に来てくれた。次の日は横浜の中華街でお祝いをしてもらったが、試合はスポーツ新聞に大きく載るわけでもなく、地元の新聞が「県民の活躍」として報じた程度。翌日から景色が変わったということもなく、特別に自信がついたわけでもなかった。
リアルにうれしかったのは賞金で奨学金を返済したことだった。僕はスポーツ推薦で拓大に入学して学費は全額免除だったが、生活費は奨学金とバイト代でまかなっていたのだ。初めてベルトを取って借金返済! もしかしたらベルトを取ったこと以上に気持ち良かったかもしれない。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】イーグル京和さんと初の世界戦、淡い期待を抱いていたが・・・ 2022年08月13日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(11)】マジか…。ホントにやるのかよ。
デビュー当初から大橋秀行会長が宣言していたように、最速記録(当時)となるプロ7戦目での世界王座奪取を目指し、イーグル京和さんとWBC世界ミニマム級タイトル戦(2007年6月4日、パシフィコ横浜)を行うことになった。試合が決まると、会長には「全然、大丈夫ですよ」と余裕をかましていたが、冒頭の言葉こそが本音だった。動じていないフリを装っていたが、内心はメチャクチャびびりまくっていた。
だが、そんな恐怖とは裏腹に試合自体には少し自信もあった。実は拓大ボクシング部時代にプロのジムを巡っていた時、イーグルさんともスパーリングしていた。しかも内容が良くて、右ストレートでイーグルさんをグラつかせていたのだ。その記憶が頭の片隅にあり、今回もパンチが当たればストンって倒せるんじゃないか…という淡い期待を抱いていた。しかしフタを開けると、とんでもない洗礼を浴びることになる。
1ラウンド(R)で3回くらい右をもらって、腰からカクンって落ちた。拓大時代にスパーリングした時とは全く角度が違う。プロに入って初めて効いたパンチ。そして2Rではイーグルさんの頭がガチンっとアゴに当たった(偶然のバッティング)。これでアゴの骨が折れ、以降は痛みとの戦いだった。必死で食らいついていったが、何を打ってもはね返され、どのパンチもかわされて当たらない。徐々にアゴがしまらなくなり、レフェリーに試合を止められるかもしれない焦りの中、パンチをもらわないように頑張った。その時点で「勝とう」という気持ちはなかった気がする。
結局、12Rまで戦ったが0―3の判定負け。プロで初めて味わう黒星だった。試合が終わると、そのまま横浜市内の病院へ直行。顔面は腫れてボコボコ、アゴの骨折…鼻から管を入れられて流動食を流し込まれた。カロリーメイトみたいな点滴を打たれ、アゴを手術し、3週間の入院生活となった。まさにボロボロの敗戦だったが、ショックはなかった。期待してくれた会長にはすごく申し訳ないが「オレなんてこんなもんだ」って思っていた。悔しさも情けなさもない。自分に自信があればメチャクチャ悔しかっただろうが、幸いにも小さいころから内気な男だ。その性格は、こういう時に役に立つ。
世間ではよく「目標は高く」「夢は大きく」なんて言うが、僕は子供たちに「志って低くてもいい」と言っている。設定を低くして、急がずに一つずつ満足感を得ていけばいい。自分はずっとそうやって生きてきた。だからボコボコにやられた時もすぐに立ち直ることができるのだ。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】負けたら辞める覚悟で4年4か月ぶりの世界戦挑戦
【八重樫東氏 内気な激闘王(12)】 オレなんてこんなもんだ――。周囲の大きな期待を背負って戦ったイーグル京和さんとのWBC世界ミニマム級タイトル戦(2007年6月4日、パシフィコ横浜)はボコボコにされて判定負け。プロ7戦目での世界王座獲得という最速記録は夢に終わった。だけど、敗戦のショックは全くなかった。自分に自信がない性格ゆえ「こんなもんだ」と負けをすんなり受け入れることができた。
ここから4年間、世界戦の話は全く来なくなった。タイミングの問題もあったが、とにかく僕はケガがメチャクチャ多かった。09~11年に日本タイトル(ミニマム級)を3回防衛しているが、指名試合しかやっていないので1年に1試合のペース。試合の2週間前にケガで動けなくなったこともあり、大橋(秀行)会長からは「こんなにケガが多いと試合を組めない」と引退勧告も受けた。
しかし「まだ頑張ります」とはねのけた。会長は親心で言ってくれたのだろうが、幼少期から取りえがなかった僕がようやく見つけたボクシングを諦めることは到底できなかった。
何とか肩の故障を治したと思ったら、すぐに腰のケガ。そんな歯がゆい時期は続いた。いろんな病院へ行って医師の指導を受け、もがけばもがくほど負のスパイラルにハマって抜け出せなくなった。だが、逆に考えると、この時期の経験がトレーナーとしての今につながっている気がする。ケガと向き合ったことで知識量が増え、フィジカルやサプリメントにも詳しくなった。一つのことを徹底的に掘り下げるオタク的な性格もプラスに働いたと思う。僕は自分自身を人体実験しながら知識を蓄えていった。
11年4月、日本ミニマム級王座を3度防衛していた僕に世界戦の話が来た。相手はWBA世界ミニマム級王者のムハンマド・ラクマン(インドネシア)だったが、東日本大震災の直後とあって来日できず、流れてしまった。その後、ラクマンに勝利して新王者となったポンサワン・ポープラムック(タイ)との試合が決定。ボコボコにされて世界のベルトを逃してから4年4か月ぶりの世界戦挑戦が正式に決まった。
この時、辞める覚悟ができていた。世界王座に2回も挑戦させてもらい、再び負けたら確実に商品価値はなくなる。それに当時は世界王者が負けたらパッと引退する風潮があった。28歳という年齢もオッサンに近かったため、負けたら潔く身を引こうと考えていた。
11年10月24日、東京・後楽園ホール。ボクサー人生を懸け、背水の陣で臨んだ。実は当時メディアに内緒にしていたことがある。僕はひどい右肩痛に苦しんでいて、1ラウンドは左だけで勝負することになったのだ。
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