東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】世界王者の喜びより大きかった〝延命〟の安心感 2022年08月16日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(13)】 負けたらもうボクシングを続けられない。プロ2度目の世界挑戦前、そう覚悟していた。
2011年10月24日、東京・後楽園ホール。WBA世界ミニマム級王者のポンサワン・ポープラムック(タイ)との一戦はあり得ない展開でスタートした。当時メディアには言わなかったが、試合前に右肩腱板損傷のケガを負い、麻酔を打って試合に臨んだ。序盤は右が使えない。一体どうやって勝つのか? 自分でも半信半疑のまま試合が始まった。
映像を見ると分かるが、1ラウンド(R)は左しか使っていない。右を打つのが怖く、左手と足でさばくスタイルに徹した。どのみち、いつかは打ち合いになるので、序
盤はとにかくラウンドをこなすことを考えた。向こうはファイターなので距離をつぶされたらオシマイ。「まだ足が動くか」「距離は取れるか」と慎重に考えながら戦っていた。
案の定、中盤から打ち合いになった。8R、向こうが下がったので一気にたたみかけた。コーナーに追い詰め、このまま打ち続けたらレフェリーが止めるだろうと思って勝負をかけたら、右カウンターを食らってしまった。スコーンと腰から崩れ落ち、尻モチをつきそうになった光景を今でも覚えている。瞬間的に「ああ、やっぱりオレは世界王者になれない人間なんだ」と思った。捨て身の打ち合いをしながら内心では悲観的なことを考えていた。
そこから先はよく覚えていない。迎えた10R、ここで引いたら絶対に負けると思って必死に攻めていったらレフェリーが試合を止めた。「止まった! やった!」と安堵し、リングにあおむけに寝転んだ。すると天井から何か大きなものが降ってきたように感じた。なんと大橋(秀行)会長が覆いかぶさったのだった(笑い)。あの奇妙な情景は今も目に焼き付いて離れない。
勝利の直後「世界王者になった!」という喜びより「まだボクシングができる」という安心感のほうが大きかった。負けたら終わりと思っていたので、何とか“延命”できた感じだ。
ただ、どうしても嫌だったのは知名度が上がってしまったこと。街で「チャンピオン」って声をかけてくださるのは本当にありがたいのだけど「すごい人」という扱われ方が嫌でたまらなかった。幼少期から自分に自信がなかった僕は目立ちたくないし、有名になるのはごめんだった。本当に放っておいてほしかった。ひっそりとボクシングできればよかった。
しかし、皮肉なことにその後、さらにボクシングファンの注目を浴びることになる。(WBC世界ミニマム級王者の)井岡一翔君と戦うことになったのだ。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】トントン拍子に進んだ井岡君との世界戦 2022年08月17日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(14)】「井岡とやるなら今しかないぞ。やるか?」
大橋(秀行)会長にそう言われ、僕は初めて(WBC世界ミニマム級王者の)井岡一翔君を意識した。2011年10月、ポンサワン・ポープラムック(タイ)とのWBA世界ミニマム級タイトルマッチに勝利。初めて世界王者になった直後に大橋会長から冒頭の提案を受けて「はい」と即答した。当時、減量がきつくて階級を上げる予定だったので、井岡君とやるタイミングを考えても、ここしかなかったと思う。
話はトントン拍子に進んでいった。放送はテレビ東京系か、TBS系か。場所も東京で開催するのか、それとも大阪か。ルールはWBAか、WBCか…。さまざまな問題が山積していたが、井岡君のお父さん(一法氏)がウチのジムに来てくれ、大橋会長と話し「どっちでもいいから、とにかくやろう」となった。
対決が実現すれば日本人同士による史上初の世界王座統一戦となるが、当時の井岡君と僕の知名度は比べ物にならなかった。統一戦といえども主役は完全に井岡君で自分はチャレンジャー。目立つことが苦手な僕としては試合前の話題を井岡君が全て持っていってくれるのは本当に気楽だった。戦前の予想でも井岡君が「勝つだろう」と言われていて「負けても誰も文句を言わないな」くらいに考えていた。自分の性格を考えると、これ以上やりやすい構図はなかった。
ただ、一部の人から「なんでせっかくチャンピオンになったのに井岡君と戦うの? もったいない」と言われたことを覚えている。僕が負ける前提のセリフ。でも、あまり気にならなかった。井岡君とは1回だけ手合わせしたことがあり「やれないことはない」と思っていたけど、勝つことは「相当難しいだろう」というのが本音だった。彼は反復練習とインテリジェンスのボクシング。それを徹底して勝ち続けている男なので「どうやって崩そうか」と考えを巡らせた。
世紀の一戦は12年6月20日、大阪府立体育会館。放送局はTBS系に決まった。試合当日、周囲は「史上初」「統一戦」と盛り上がっていたけど、井岡君に対して特別な意識はなかった。ただ「打ち合い」に持っていくプランを立てていた。それはなぜか。足を使ってポイントアウトする展開は彼の土俵だから。それをすると、分が悪い。だから、ある程度の被弾を覚悟して打ち込んでいくことにした。
人間の心理として、パンチが当たり出すと「もっと打てるぞ」という意識になる。それを逆手に取って、エサをまき、打ち合う距離におびき寄せることにした。案の定、作戦はハマった。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】被弾覚悟で理想通りに試合を組み立てたが… 2022年08月18日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(15)】 引退した今もファンの方に井岡一翔君との試合について聞かれることが多い。この一戦は日本人同士による史上初の(WBC&WBA世界ミニマム級)統一戦として話題を集めたが、周囲の盛り上がりとは裏腹に冷静だった。子供のころから内向的で目立つことが大嫌い。世界王者になって街で声をかけられることも苦手だったので、知名度が高い井岡君が注目を独占してくれて本当にありがたかった。
2012年6月20日、大阪府立体育会館。試合当日、ある構想を練っていた。足を使ってポイントアウトするスタイルは井岡君の真骨頂。その土俵に上がったら勝ち目がないので、打ち合いに持っていくプランを立てた。1ラウンド(R)から思惑通りに試合が進んでいった。前半にペースを握り、中盤で少し中だるみをつくり、後半に再びギアを上げる。この普段通りの作戦に加え、僕は被弾を覚悟して井岡君をおびき寄せた。パンチが当たれば、もっと打ちたい――。そんなボクサーの心理を突いた作戦だ。
自分から攻撃しにいったらクレバーな井岡君に足を使って逃げられてしまう。だからパンチの芯を食わないよう注意して、井岡君を打ち気にさせる“エサ”を丁寧にまいた。松本(好二)トレーナーはずっと「もらわないように」と声をかけてくれ、それを聞くたびに冷静になり、淡々とプランを遂行していった。
振り返ると、自分の理想通りに試合を組み立てられたと思う。ただ結果は判定負け(0―3)。敗因はパンチをもらい過ぎたことに尽きる。ある程度の被弾は予想していたけど、あれほど目が腫れたのは想定外。試合後の腫れ方も尋常ではなかった。作戦はうまくいったものの、そのあたりが実力不足だった。そういえば、試合中のドクターチェックの際、大橋(秀行)会長は「八重樫はもともと目が細いから大丈夫だ」と主張した。あの場面でそれを言うとは…。改めて面白い会長だ(笑い)。
井岡君に敗れ、僕は一度も防衛できずにベルトを失った。しかし、喪失感はなかった。ベルトや王座に対する執着もなかったので、自分の本来の立ち位置に戻ったと感じていた。何度も言うが、僕は生まれてから一度も自分が強いと思ったことはない。前回はたまたまベルトが巡ってきたけど、井岡君に負けて元通りになっただけ。敗戦による精神的ショックはなく、とにかく体を回復させることを第一に考えていた。
あれから10年が経過したが(WBO世界スーパーフライ級王者の)井岡君は今も現役で頑張っている。(世界バンタム級3団体統一王者の)井上尚弥とはタイプが違うが、改めて彼のような「色」のある選手もいるからボクシングは面白いなって思う。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】「リベンジ」では生ぬるい 天敵・五十嵐に一発逆転! 2022年08月19日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(16)】ボクシング人生で「天敵」と呼べる人間が1人いる。アマチュア時代に4戦全敗した元WBC世界フライ級王者の五十嵐俊幸だ。初対戦は高校(岩手・黒沢尻工)3年生。インターハイで優勝し高校最後の大会となる国体(ライトフライ級)の東北大会で1個下(高校2年)の彼に敗れた。その後もサウスポーを攻略できず、一度も勝てないままプロの道へ進んだ。
2013年、WBC世界フライ級王者(当時)の五十嵐に指名され、挑戦者として5度目の対戦に臨むことになった。正直、穏やかな心境ではなかった。アマ時代に4回も負けている事実に加えてナチュラルに挑発してくる言動がちょっと引っ掛かっていた(笑い)。
「手っ取り早く八重樫さんに勝って」と発言したり、試合直後に「八重樫さん、ありがとうございました! 3ラウンド(R)の左ボディー、効きましたよね?」と言ってきたり…。悪気はないと思うけど、もうちょっと言葉を選べよって(笑い)。まあ、そこが憎めないところではあるけど、とにかく5連敗は避けなければならなかった。
問題は最も苦手とするサウスポーをどう攻略するか。頭を悩ませていると、大橋(秀行)会長が「おまえが勝つ方法はこれしかない」と言って一つの動画を提示してきた。会長が現役時代に対戦した元WBC世界ライトフライ級王者の張正九(韓国)がサウスポーのイラリオ・サパタ(パナマ)と戦った試合(1982年9月19日、同級タイトル戦)だった。判定で敗れたものの、長身サウスポーのサパタを攻略した映像を何度も見返し、そのイメージを練習でアウトプットした。
13年4月8日、東京・両国国技館。WBC世界フライ級タイトルマッチ直前、最後にもう一度ユーチューブで張の動画をチェックしてリングへ向かった。ゴングが鳴り、コリアンファイターになりきった僕は頭を低くし接近戦に持ち込んだ。手数を増やし、サウスポーのアウトボクサーが嫌がることを徹底。何度も見た張の戦いを体現した。1回かみついたら絶対に離さない。その精神力と足腰には自信があった。作戦は完全にハマり、ついに五十嵐に勝つことができた(判定3―0)。
アマチュアルールは3Rなので、4連敗は12Rも負け続けたことになる。だから今回の12R判定勝ちで一発逆転。この勝利で2階級制覇となったが、そんなことより五十嵐に勝てたことが何よりうれしかった。よく使われる「リベンジ」という言葉では生ぬるい。僕の中では完全に「復讐」だった。高校3年の初敗北から約13年、ようやく実現できたが、そんな気持ちを五十嵐はいまだに知らないと思う(笑い)。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】特攻隊になった気持ちで最強男・ロマゴン戦へ 2022年08月20日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(17)】「八重樫、ちょっと来い」。2014年1月、北海道・函館で行われたジムの新年会で大橋(秀行)会長に手招きされた。この手の呼び出しは大抵マッチメークの話だ。案の定、大橋会長の口から世界戦の提案が出た。「ロマゴンとの話があるけど、やるか? 別に無理にやらなくてもいい。断ってもいいんだぞ」
後に4階級制覇王者となるローマン・ゴンサレス(ニカラグア、帝拳)は、その時点で37戦全勝。最強男との対戦に「NO」の選択肢などあるはずがない。いつものように「やります」と即答。こうして両陣営の意思が確認され、大激闘となった試合が実現したのだ。
その3か月後、僕はWBC世界フライ級3度目の防衛(14年4月6日、東京・大田区総合体育館)に成功。この日は井上尚弥が初めて世界タイトル(WBC世界ライトフライ級)を取った興行でメインは尚弥だった。本来は防衛戦がメインになるものだが、大橋会長に「八重樫、ごめんな。尚弥に譲ってくれ」と言われて「全然いいですよ」と、ここでも即答。セミで防衛を果たし、メインで尚弥が初の世界王者になる最高のストーリーが出来上がった。
このころ、僕はジムで何度も尚弥とスパーリングし、才能あふれる彼に必死で食らいついた。尚弥との思い出は後述するが、今の僕があるのは間違いなく彼のおかげだと思っている。
ロマゴン戦(14年9月5日、東京・国立代々木競技場第二体育館)が正式決定し、WBC世界フライ級王者として最強男の挑戦を受けることになった。ただ、実際にどうやれば勝てるのか、見当もつかなかった。なにせ彼は一度も負けたことがない男。攻略の正解例がない。映像を何回も見返したけど、見れば見るほど死角がないし、すごいボクサーだと思った。勝って名を上げようなんて発想は皆無。それより「死ぬのかな」「生きてリングを下りられるか」とか、そういうレベルの思考だった。しかし一方では、どこか根拠のない自信もあった。足を使ってさばき切れば意外といけるんじゃないか、と。
相反する気持ちが渦巻く中、覚悟だけはできていた。負けるにしても日本人らしく「堂々と散ろう」と決めていた。これは僕の譲れない「美学」。片道燃料でリングへ向かい、そこですべてを使い切る。実際、試合前には「片道燃料でいきます!」って記者さんたちに言った記憶もある。子供の時に読んだ漫画の影響か、そういう生き方に憧れていた。
ロマゴン戦はボクシング人生をかけた“神風アタック”。僕は腹をくくり、特攻隊になった気持ちでリングへ向かった。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】惨敗したもののロマゴン戦で得た確信 2022年08月22日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(18)】 2014年9月5日、東京・代々木競技場第2体育館。WBC世界フライ級王者として、39戦無敗(当時)と“最強の男”ローマン・ゴンサレス(ニカラグア)の挑戦を受けることになった。ベルトを持っているのは僕だが、主役はもちろんロマゴン。僕は特攻隊になったつもり。「片道燃料で行きます!」と玉砕覚悟でリングへ向かった。
この試合に関しては、今もファンの方に「感動した」「泣いた」と言われる。ありがたいことに、打ち合いを評価していただいたようだ。よく井岡一翔君の試合(12年6月20日、WBC&WBA世界ミニマム級王座統一戦)と比較されるが、僕の中では全く違う種類の打ち合いだった。井岡戦は接近戦におびき寄せる戦術。ロマゴン戦はやや感情のスイッチが入った格好。1回ダウンしたので「もうどうでもいいや!」と大胆になったのだ。
打ち合いながら、僕は大きなギャップを感じていた。パンチを出すたびに会場から大歓声が沸いたが、実際は全く当たっていなかったのだ。ブロックの上を叩いているだけで、芯を食っていない。ファンの「ワー、ワー」という声を耳にしながら「オレのパンチ、効いてないのにな」と感じていたことを覚えている。反対に嫌というほど相手のパンチをもらった。つなぎが速すぎて、全くついていけない。やることすべてはね返され、完全にジリ貧状態。「クソっ! どうしよう」と思って戦っていた。ロマゴンのパンチは表現として「強い」ではなく「うまい」。まさに接近戦のスペシャリストだった。
最後のシーン(9ラウンドTKO負け)も断片的に脳裏に焼き付いている。あのパンチもテクニックだった。タイミングを合わせられ、スコーンとやられた。倒れた時に「まだできる!」と思って立とうとしたが、レフェリーが試合を止めてしまった。「なんで止めるんだ。まだできるのに…」と悔しい思いで天を仰いだ。
レフェリーに抱えられてコーナーに戻り、大橋(秀行)会長に「大丈夫か?」と聞かれると、なぜか「これなら(井上)尚弥は勝てますよ」と言ったのを覚えている。会長は「こんな時に何を言っているんだ?」と驚いていたが、当たり前だ。自分でもなぜ突然、そんなことを言ったのか分からない。試合をしながら、いつもスパーリングしている尚弥とロマゴンを無意識のうちに比較していたのだろうか。
リングを降りてからの記憶はあやふやだが、ある確信を得ていた。惨敗したものの、プロボクサーとしての矜持が芽生えていたのだ。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】敗戦後にかけられた言葉で意識に変化 2022年08月23日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(19)】 僕のボクサーとしての価値って何だろう。キャリアの晩年、そんなことをよく考えていた。
2014年9月5日、僕はWBC世界フライ級タイトルマッチで、当時の最強男ローマン・ゴンサレス(ニカラグア)に9ラウンド(R)TKO負けを喫して王座陥落。打ち合いの末の完敗だったが、不思議と満足感も芽生えていた。試合後、周囲の方から予想外の言葉をかけられ、意識に変化が生まれたのだ。
この時期は、常に「負けたらオシマイ」と引退を覚悟し、ロマゴン戦も「散るときは潔く」と捨て身だった。敗戦後、たくさんの人から「本当にいい試合だった」「涙が出たよ」と思いがけない言葉をいただいた。ジムには「感動して涙が止まりませんでした」と書かれた手紙が届き、全く知らない方からも連絡がきた。負けたのに「八重樫は強い」「また戦う姿を見たい」と言ってくださり、喜びとともに自分のニーズを感じていた。
幼少期からコンプレックスの塊で、いくら勝っても自分に自信がなかった。でも、皮肉なことに井岡一翔君との試合(12年6月20日、WBC&WBA世界ミニマム級統一戦)やロマゴン戦と敗北するたびに自分の強さを認めてもらった気がする。そのあたりから自分の必要性や商品価値を考えるようになった。
たぶん僕が世界チャンピオンになってもニーズはない。井上尚弥のように圧倒的に強く、ヒーローショーのような勝ち方はできない。でも倒れても立ち上がり、殴られても向かっていくことはできる。そこに僕の価値があるのではないか。それならボクシングを続けてもいいのではないか。そう考えて、再びリングに立つことにした。今思うと、井岡戦とロマゴン戦はかけがえのない財産となっている。
その後、階級をライトフライ級に落として挑戦を開始。3階級制覇を目指して14年12月30日、WBC世界ライトフライ級王座決定戦(東京体育館)でペドロ・ゲバラ(メキシコ)と戦ったが、7RでKO負けを喫した。これで世界戦2連敗、それもKO負け。さすがに周囲から「限界」と言われはじめた。
しかし、同戦の敗戦原因は明らかに減量ミス。フライ級のパワーを維持して戦おうとした僕はリカバリーで食事を取りすぎ、体重を8キロも戻してしまったのだ。これがコンディション悪化につながって負けたのだが、周囲は「階級を上げて下げる(ミニマム↓フライ↓ライトフライ)のは無理だ」と批判された。
自分の中では減量さえミスしなければ「必ずライトフライ級で勝てる」という自信があったので、どうしても証明したかった。周囲の声に励まされたロマゴン戦とは逆に、今度は周囲への反骨心が僕に火をつけた。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】反骨心から減量成功させリベンジの舞台へ 2022年08月24日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(20)】僕を奮い立たせるのは、いつだって反骨心だ。2014年12月30日にWBC世界ライトフライ級王座決定戦(東京体育館)でペドロ・ゲバラ(メキシコ)に7ラウンド(R)KO負けを喫した時もそうだった。
同年9月のローマン・ゴンサレス戦(WBC世界フライ級王座陥落)に続く世界戦2連続KO負けで「引退」もチラついたが、周囲の評価が僕を突き動かした。この敗戦は減量後のリカバリーで体重を戻し過ぎたことが原因だったが、周りからはミニマム級↓フライ級↓ライトフライ級という足取りに対し「階級を上げて下げるのは無理」「八重樫にはできない」などと言われた。そんな指摘を覆して、完璧な減量を証明したい一心でリベンジを誓った。
僕はコンディショニングトレーナーの桑原弘樹さんのアドバイスを受けて、人間の体をイチから勉強した。いろんな分野の人に会ってサプリメントの知識を得たり、歯医者さんから歯のかみ合わせとパフォーマンスの関係性、マウスピースの形なども教わった。あらゆる分野に興味を持ち、マニアックな情報も深掘りした。すると徐々に理論が分かり、最終的に自分の体をすべてコントロールできるようになっていた。現在トレーナーとして後輩たちに減量やフィジカルのことを伝えられるのも、この時期の経験が大きいと思う。
15年12月29日(東京・有明コロシアム)、IBF世界ライトフライ級王者ハビエル・メンドーサ(メキシコ)への挑戦が決まり、いよいよリベンジの舞台が整った。減量とリカバリーはバッチリ。試合も思い描いたプラン通りに進んだ。メンドーサはサウスポーだったが、WBC世界フライ級タイトルマッチ(13年4月8日、東京・両国国技館)で五十嵐俊幸をやっつけて以来、サウスポーへの苦手意識を完全に払拭していた。
それにメンタルとフィジカルがともに高いレベルで充実していて、やりたいことがすべてできた。打ち合いの場面が多くて顔がボコボコに腫れてしまったが、それも僕らしい。すべてにおいて八重樫らしさが光った試合といえる。判定勝ちで3階級制覇を達成。周囲からたたえられたが、僕としてはライトフライ級へのリベンジを果たせたことがうれしかった。
この試合はセミファイナルで行われ、いつものようにメインは世界一の後輩、井上尚弥の試合(WBO世界スーパーフライ級王座V1戦)だった。12R判定勝ちした僕は集まったメディアの方々に「尚弥の試合、見なくていいんですか? すぐ終わるので早く行ったほうがいいですよ」と勧め、その言葉通りに尚弥は2Rで試合を決めた。
翌日の一夜明け会見の主役は完全に尚弥。幼少期から2番手人生を歩んできた僕は、その立ち位置が実に心地良かった。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】ノー練習の半年間を経て「最愛」を体感できたが… 2022年08月26日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(22)】 ボクシングの世界に入って初めて半年以上も練習をしなかった僕は、必死に“自分探し”をしていた。
2017年5月21日(東京・有明コロシアム)、IBF世界ライトフライ級V3戦でミラン・メリンド(フィリピン)に人生初の1ラウンドTKO負けを喫し、練習も試合もヤル気が起きず、日々を過ごしていた。大橋(秀行)会長から「12月に試合を組むぞ」と言われるも、僕は初めて「パスでお願いします」とNOを選択すると「分かった」と理解いただいたが、ここでようやくスイッチが入った。
18年に向けて「これが最後の挑戦だ」と心に決めた。自分のボクシング人生を振り返り、どうやって集大成を迎えるかを考えた。それには明確な動機が必要だった。といっても自分が頑張るための理由を無理やりつくる感じだ。僕はスーパーフライ級に上げて、当時日本人初となる「4階級制覇」を目標とした。周囲を納得させるための“大義名分”だ。やらざるを得ない状況に追い込み、再起を誓った。
全く練習しない日常からボクサーの生活に戻し、改めてボクシングがどれだけ大事な存在かを知った。毎朝、走り込みながら「もうできなくなるかもしれない」といとおしい気持ちになり、かみしめるように練習した。もはやベルトとか王座はどうでもよかった。4階級制覇ですら名目でしかない。それよりボクシングに向き合っている1分1秒が楽しくて仕方ない。そんな自分が大好きだった。毎朝1人でシュート練習を行い、自分を疑わずに努力していた中学のバスケットボール部時代に戻った気がした。あの時期に自分の人格が形成されたのだろうか。再起してから引退までの最終フェーズは最も充実し、ボクシングを最高に愛した時期かもしれない。
スーパーフライ級のノンタイトル戦を3連勝した後、19年12月23日(横浜アリーナ)、IBF世界フライ級王者のモルティ・ムザラネ(南アフリカ)に挑戦することになった。最終的にスーパーフライ級で戦うことはできず4階級制覇の挑戦は持ち越しとなったが、僕はフライ級で王者になって転級する青写真を描いていた。
しかし、試合は9ラウンドTKO負け。相手は同い年で年齢を言い訳にできない完敗だった。だが、今回は自然と敗戦を受け入れることができた。この時期、自分の世界に入り込んでいたので試合の結果や周囲の状況に精神状況が左右されなくなっていたのだ。
試合の翌日から僕は走り始めた。井上尚弥に「今はゆっくり休んでください」って言われたが「もう走っちゃったよ」と答えたのを覚えている。練習しながら今後のことを考えようとしていると、世の中が激変した。新型コロナウイルスが練習の機会を奪ったのだ。
東スポTOP ボクシング 【八重樫東氏コラム】内気な性格がくれた宝物 僕は何度も立ち上がることができた 2022年08月27日 16時00分
【八重樫東氏 内気な激闘王(最終回)】 ボクシングの世界に入ったキッカケは岩手・黒沢尻工高時代に友人から誘われたからで、大橋ジムに入門したのは、拓大ボクシング部の中洞三雄コーチ(現監督)の電話。僕は人生の節目で必ず他人に決断を委ねてきたが、現役引退の時も同じだった。
2019年12月23日(横浜アリーナ)、IBF世界フライ級王者モルティ・ムザラネ(南アフリカ)に敗れた僕は翌日から練習を開始。ゆっくりと身の振り方を考えていると、新型コロナウイルスが世界を襲った。自分の進退も不透明なうえに、練習もできない異常事態。もはや自分では決められない。デビュー戦からずっとセコンドに就いて一緒に戦ってくれた大橋(秀行)会長に身を任せることにした。
20年2月末に「続けようと思えば続けられますが、もし『試合を組まない』と言われたら辞めようと思います」と投げかけると、会長は「もういいんじゃないか。大橋ジムを内側から盛り上げてくれ」と言ってくれた。スッキリした気持ちで「分かりました」と言い、高校時代から約21年続けたボクサー人生に終止符を打つことを決めた。
コロナによって延期されていた現役引退の記者会見は20年9月1日に行われた。拓大4年の時、大橋ジムで初めて練習した特別な日だ。会見の席で、とっさに会長の名言を口にした。「僕が誇れるのは世界チャンピオンになったことではなく、何度負けても立ち上がったことです」。事前に決めたわけでもなく、自然とマネしていた。ニヤリと笑っていた会長の顔が忘れられない。
現在は大橋ジムのトレーナーとして後輩らを指導している。「セカンドキャリア」と言われるが、僕の中では「ネクストステージ」のほうがしっくりくる。まだ選手としてボクシングの道を歩んでいるような感覚だ。フィジカル面でサポートする(世界バンタム級3団体統一王者)井上尚弥には心から感謝している。現役時代に何度もスパーリングし、必死に食らいついて強くなれた。尚弥がいなければ、今の自分はないと思っている。
最後に、なぜ幼少期からコンプレックスの塊だった自分が世界を取れたかを伝えたい。おそらく僕は一般的な成功者とは違う。自信がないから失敗しても「こんなもんさ」と開き直れ、精神的ダメージもあまり受けなかった。今「夢を大きく持て!」という教えを刷り込まれている子供らがあまりにも多い気がする。別に志が低くたっていい。一つずつ満足感を得て、徐々に自信をつける方法だってあるのだ。
僕は小学生でプロ野球選手になる夢を諦め、中学でNBA選手になる夢を諦めた。だけどボクシングで世界チャンピオンになれた。内気な性格がくれた宝物だと思っている。 (終わり)
☆やえがし・あきら 1983年2月25日生まれ。岩手・北上市出身。拓大2年時に国体を制覇し2005年3月に大橋ジムからプロデビュー。11年10月、WBA世界ミニマム級王座を獲得し岩手県出身初の世界王者になる。12年6月にWBC同級王者・井岡一翔と史上初の日本人世界王者同士の統一戦で判定負け。13年4月にWBC世界フライ級、15年12月にIBF世界ライトフライ級王座を獲得し3階級制覇を達成。20年9月に引退。プロ通算35戦28勝(16KO)7敗。身長162センチ。
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