2022年8月7日日曜日

東スポWEB 八重樫東氏コラム

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東スポWEB ボクシング  【八重樫東氏コラム】


片道燃料の流儀 ロマゴン戦の神風アタックができたワケ 2022年08月01日 16時00分

現在は大橋ジムでトレーナーを務める八重樫氏がボクシング人生を語った(東スポWeb)

【八重樫東氏 内気な激闘王(1)】 数々の壮絶な打ち合いを演じて「激闘王」の異名を取ったボクシング元世界3階級制覇王者の八重樫東氏(39)がリングを去ってから、まもなく2年がたとうとしている。まぶたを腫らしながら玉砕覚悟で相手に立ち向かう一方で、リングを離れれば寡黙で穏やかな好青年だ。そんな二面性が交錯するファイターの素顔に迫る新連載「内気な激闘王」がスタート。八重樫氏は自身の半生を振り返り、ボクサーとしての「流儀」を激白した。

 ――まもなく引退して2年。だいぶ顔もきれいになった

 八重樫氏(以下、八重樫)おかげさまで(笑い)。特に後遺症などはないですね。ただ、よくボコボコの顔が「激闘の証し」と言われますが、できることならパンチをもらわず、常にきれいな顔で試合を終えたかった。

 ――激しい打ち合いはファンの心をつかんだ

 八重樫 特に意識して打ち合っていたわけじゃないのですが、試合中はあるキッカケで感情的になったりします。例えば、滑り出しから自分が描いた理想通りに試合が運ぶとさらに完璧を求めて丁寧に戦いますが、途中で一度でもミスすると「もう100点じゃないならいいや!」って大胆になる。カチッとスイッチが入る感じですね。そこは自分の欠点だと思っていますけど。

 ――井岡一翔戦(2012年6月)、ローマン・ゴンサレス戦(14年9月)の激闘は語り継がれている

 八重樫 ありがたいことに、ファンが感情移入してくださったみたいで、特に「ロマゴン戦で泣いた」という声をよくいただきます。僕の試合って、見ている方がゲームのコントローラーで操作している感覚になるようです。みんなが「いけ!」って思ったら必ずいってるみたいで。ファンの気持ちを投影できたのはうれしいですが、最後は倒されてゲームオーバー(笑い)。

 ――試合前は怖くなかったか

 八重樫 いつも怖かったですよ。でも、死ぬかもしれない恐怖ではなく、試合に負ける怖さです。リングに上がったら「もう無事に下りられなくてもいい」って本気で考えていましたから。腕1本なくなろうが、片目が潰れようが、勝てばいいって。だからロマゴン戦のような“神風アタック”ができたんですよ(笑い)。

 ――いつから捨て身の精神になったのか

 八重樫 キャリア晩年からですね。ボクシングをやれる時間がだんだんと少なくなり、試合前に「覚悟」を決めるようになったんです。特に引退間際は自分の体を引き換えに勝てるなら何でもいいって感じ、本当に“片道燃料”で試合に臨んでいました。

 ――リングを下りると一変して寡黙だ

 八重樫 僕はもともと内向的で子供のころから体が小さくてコンプレックスの塊。でも、なぜかリングに立つと強気になれました。リングって面白くて、普段おとなしいのに恐れず立ち向かう人もいれば、逆にいつもイキがっているのに試合で急に弱気になるヤツもいる。リングでは虚勢が通用しません。何の制限もなく自分を表現でき、人の本当の姿を映し出す場所。だから僕はボクシングが好きなんです。

 ――よくギャップに驚かれるのでは

 八重樫 はい、よく言われます。顔は傷だらけでヒゲもあって、試合の僕しか見たことない方は威勢のいいヤツって勘違いするようで…。だから現役時代はよく街で怖そうな人に絡まれました。僕らは手を出しちゃいけないので、そんな時はニコニコしながら「すみません」って謝って猛ダッシュ。僕、逃げ足には自信があるので(笑い)。

 ――これからのボクシング界について

 八重樫 自分の「色」を持ったボクサーが増えてほしい。僕はおかげさまで応援してくださる方が感情移入するボクサーでしたが、逆に井上尚弥のように感情移入できないほど、完全無欠のヒーローショーを見るのも面白い。他にも辰吉丈一郎さん、畑山隆則さん、井岡一翔くん、清水聡…。そんな個性あふれるボクサーの誕生を期待したいです。

 ――現役復帰は

 八重樫 現役晩年にずっと悪あがきをしたのでもういいです(笑い)。それに、いまさら若手の踏み台になって倒される姿を見せたくないし、命を懸けて試合をしている教え子たちに失礼。今は彼らにすべてのエネルギーを注ぎたい。現役時代のように、全力で。


キャッチャーフライ捕れず悔し泣き 内に秘めたものあったが… 2022年08月02日 16時00分

小学生時代の八重樫は内気だった

【八重樫東氏 内気な激闘王(2)】自分が強いと思ったことなんて一度もない。幼少期から今に至るまでずっと劣等感を抱いてきた。それは世界王者になろうが、3階級制覇しようが変わらない。

 こんなことを言うと人は「謙虚だね」と褒めてくれる。でも本当に自信がない。かつては街で「チャンピオン!」って声をかけられ、チヤホヤされたりもした。しかしそれは一瞬のことだ。試合にたまたま勝ってベルトが回ってきただけ。運といえば運だ。冷静になって考えれば、僕よりも強い選手なんていくらでもいる。上には上がいるってことを昔から痛いほどよく分かっていた。

 なぜこんな考え方になったのだろう。この連載を始めるにあたり改めて自分と向き合ってみたが、やっぱり幼少期の経験が根底にあると思う。物心ついたころからネガティブで内向的。そして人一倍のコンプレックスを持っていた。体格や身体能力が周囲より劣っていたので、背が高くて足が速い人やスポーツ万能な人を見ると、必ず自分と比較した。野球をやれば打てない、遠くに投げられない。バスケットボールをやってもシュートが入らない。食も細ければ勉強だって自信がない。そして気付いてしまった。彼らに勝てるものは何一つないってことを…。小学生が抱えるにはあまりにもつらい現実だ。こんな感じで僕は自分を否定し続け、今の人格が形成されたんだと思う。

 でも僕はネガティブなまま終わらなかった。コンプレックスを抱えながらも自分と向き合い、少しでも強くなろうとあがいた。小学3年生の時、地元の岩手・北上市内の野球チームに入った。父親(昌孝さん)がコーチ、1つ上の兄(大さん)も同じチームにいて、2つ下の弟(悟さん)も後から入った。5人家族のうち4人がチームメート。そこでも目立たずおとなしい存在だったが、5年生でセカンドのレギュラーになり、6年生では体が小さいのにキャッチャーを任された。

 最後の地区大会で敗れた時、弟が涙を流していたシーンを覚えているが、僕も練習中によく泣いていた。キャッチャーフライが捕れず、コーチに何本もフライを上げてもらい、泣きながらボールを捕りにいった。すごく悔しかった。どうやら内に秘めたものはあったらしい。でも、それをうまく外に表現できない。だから、ただ悔しくて泣く子だった。今思えば、過剰な劣等感が自分を伸ばす最大の原動力になったのかもしれない。

 僕は後に世界チャンピオンになるが、当時は日本に有名な王者がたくさんいたため、ベルトを巻いても目立たない存在だった。絵に描いたような“2番手人生”。その兆候は少年野球時代からあったようだ。小学6年生の時、僕はキャプテンに選ばれながら「主役」にはなれなかったのだ。


小学校で唯一の勲章…表彰された時も主役は弟だった

【八重樫東氏コラム】小学校で唯一の勲章…表彰された時も主役は弟だった 2022年08月03日 16時00分

弟を題材にしたポエムで初めて1番に選ばれた

【八重樫東氏 内気な激闘王(3)】幼少期から体が小さく、何をやっても人並み以下。しかしコンプレックスが原動力となり、負けず嫌いな性格が出来上がっていった。

 地元の岩手・北上市内の野球チームでは5年生からレギュラー。うまく捕れず、悔しくて泣きながらボールを追ったが、6年生でキャプテンに任命された。しかしポジションは地味なキャッチャー。そして同じ時期に野球を始め、バッテリーを組んでいた清水健太君は4番でピッチャー。野球の「花形」でチームでは完全な“赤レンジャー”だった。僕は打撃も得意ではなく、キャプテンなのに主役を張れず、スポットライトを浴びることはできなかった。

 父(昌孝さん)は寡黙なエンジニア、母(淳子さん)は明るく社交的な肝っ玉かあちゃん。僕は1つ上の兄(大さん)、2つ下の弟(悟さん)に挟まれた次男で常に兄貴がやることをマネしていた。そんな家庭環境もあって僕はもともとキャプテン肌ではない。一応、正捕手なのでチームの要だけど、存在感はなく縁の下の力持ち的な立ち位置だった。人をまとめる自信もなかったので清水君のほうがよっぽどキャプテンらしかった。でもそんなポジションが妙に心地良かった。

 そういえば世界王者になってからも、ずっと誰かの陰に隠れていた気がする。3階級制覇を達成した時(2015年12月)には、すでに井上尚弥というとんでもない男が同じジムに現れ、他にも内山高志さん、山中慎介さん、村田諒太くん…。キラ星のような一流ボクサーたちに埋もれ、僕は世界王者なのに「誰?」って目で見られていた。そんな立ち位置が嫌いじゃなく、むしろ気に入っていたのは小学生時代につくられた“2番手気質”のせいなのだろう。

 たった一つだけ、忘れられない成功体験がある。小学校低学年の時に書いた「弟の入園式」という詩が表彰されたのだ。1番になった経験がない少年にとって初めての勲章。入園式の朝、父が靴を磨き、自分も特別な気持ちで身支度している様子が書かれている。今、読み返すと、なぜこんな詩を書いたのか覚えていない。たぶんかわいくて大好きな弟を題材にしたのが審査員に響いたのだろう。自分の内面を表現した作品が認められたのは僕らしいが、ここでも主役が自分じゃなくて「弟」というのが笑える。

 劣等感を抱きながらもささやかな成功体験を重ねて北上市立北上中へ進学し、漫画「スラムダンク」の影響でバスケットボール部に入った。子供にとってアニメや漫画の世界観って人格にものすごく影響を及ぼす。特に昔の熱血漫画は「頑張ればうまくなる」「努力は報われる」というストーリー。そんな“昭和の熱血魂”を漫画から刷り込まれた僕は、バスケ部時代に自分なりの努力の方法を確立した。毎朝1人で特訓を続けたのだ。



スラムダンク桜木花道と自分をダブらせ1人で地道な朝練

【八重樫東氏コラム】スラムダンク桜木花道と自分をダブらせ1人で地道な朝練 2022年08月04日 16時00分

八重樫(手前)は中学時代にバスケットボールに取り組んだ

【八重樫東氏 内気な激闘王(4)】 幼いころからコンプレックスの塊だった僕が、なぜ世界王者になれたのか。その要素の一つが、中学のバスケットボール部時代にある。

 1995年、北上市立北上中(岩手)へ進学すると、漫画「スラムダンク」の影響もあってバスケ部に入った。小学生の時に野球と並行してミニバスを習っていたが、約10人いた同学年の中でも決して上手な方ではなかった。体が小さい僕はポイントガードで、3年生ではキャプテンの控え。結局、3年間スタメンには入れず、ルーズボールを必ず取りに行くようなガッツを買われて起用されていた感じだった。

 相変わらず自分に自信がなかったため「試合に出たいけど出たくない」という心境。もしシュートを外したらどうしよう…とおびえていて、ボールを持つことが怖かった。最後にポイントガードが打つフォーメーションがあるが、その指示が出ると恐怖で足がすくんだ。とはいえ、ボールをもらった以上は責任を果たさないといけない。そこで奮起した。毎朝、学校の始業前に体育館へ行き、1人でシュート練習を繰り返したのだ。

 2年生ごろから始めた1人だけの朝練は、卒業するまでほぼ毎日続けた。もちろん部員は誰も知らない。唯一、知っているのは体育館のカギを開けてくれた用務員さん。その方がバスケ部の監督だった。こんなことを言うと監督へのアピールと思われそうだが、決してそうではない。ただ上手になりたかっただけで、そもそも僕はアピールして目立ちたいという陽キャな人間ではない。ボールをもらった時、いかに不安を打ち消すか。その一心だった。

 何より、1人でシュート練習していた自分がすごく好きだった。僕は自信家じゃないのでナルシストとは違うが、誰にも知られず、自分と向き合って努力を重ねる時間が大好きだった。たぶん漫画の影響だろう。「スラムダンク」の桜木花道と自分をダブらせ、ハッピーエンドを信じて疑わなかった。努力は報われる、頑張れば成功すると。つくづく子供って単純だなあと思う。

 結局「スラムダンク」では全国制覇の目標を達成できず、僕もレギュラーになれなかった。でも1人で努力を重ねた、あの時間だけは「今」につながっている気がする。ああいう経験が人生の中で何個かあると、それだけで人は頑張れると思う。夢中になれるなら何でもいい。一つのことに打ち込んでいる、自分が好きになれる瞬間がある。その時間をたくさんつくることで「頑張れる」という人格が形成されると思う。

 ネガティブだった僕は「頑張れる」という喜びを知り、98年に岩手県立黒沢尻工高に進学。そこから僕の人生はボクシング一色に染まった。



戦闘能力ゼロだったのに訳も分からずボクシング入部

【八重樫東氏コラム】戦闘能力ゼロだったのに訳も分からずボクシング入部 2022年08月05日 16時00分

インターハイで優勝した八重樫(左)。右はボクシング部に誘った西本氏

【八重樫東氏 内気な激闘王(5)】  もし人生を「章」で区切るなら、八重樫東の第2章スタートは高校入学だろう。縁もゆかりもなかったボクシングの世界へ飛び込んだからだ。

 中学のバスケットボール部時代に「自分と向き合う」楽しさを知った僕は1998年に父(昌孝さん)と兄(大さん)の出身校、岩手県立黒沢尻工高に進学。大学に行く予定もないし、工業高校に行けば北上工業地帯で就職できると思って選んだ。部活を迷っていると、中学時代にバスケ部でキャプテンだった西本渉君に「ボクシングをやらないか」と誘われた。黒沢尻工高のバスケ部は全国レベルだったのでレギュラーになれないと思い、誘いに乗ってボクシング部に入った。ここが運命の分かれ道だった。

 ボクシングの知識といえば漫画「はじめの一歩」くらい。K―1のアンディ・フグ(故人)は知っていたが、ボクシングの試合をテレビで見た記憶もない。自分がボクサーになり、世界王者になるなんて夢にも思わなかった。人生って不思議なものだ。とはいっても僕は体が小さくてコンプレックスの塊。もちろん戦闘能力はゼロだ(笑い)。「ボクシングはやるけど、そんなに本気ではやらない…」と“保険”をかけてスタートした。

 ワケが分からないままボクシング人生が始まったが、不思議と違和感はなかった。恐らく僕は個人競技のほうが合っていた気がする。小・中学時代に野球、バスケと団体競技を経験してうすうすわかっていたが、協調性をもって一つの目標に進むより、1人で黙々と練習する時間のほうが好きだった。だからサンドバッグやシャドー、ロードワークなど1人でコツコツと努力を重ねるボクシングは楽しかった。

 入部後、初めてのスパーリングで洗礼を受けた。相手は高校OBで拓大へ進学した先生、つまり大先輩だ。いきなり左ボディーで落とされ、僕はドーンと倒れた。苦しくて、もだえたのを覚えている。同じライトフライ級とはいえ、大学の1部リーグでバリバリやっていた相手だから無理もない。今考えても、あのスパーは無謀だった。

 減量がきつくて部を辞める人も多かったが、僕の学年は8人全員、誰も辞めずに卒業できた。本当に仲が良かった。部活帰りに走ったり、バスケをやったり。練習は過酷だったが、みんなで一緒にいるのが楽しくてボクシングを続けることができた。3年生の時にインターハイ(モスキート級)で優勝し、実績を残せたが、同期と過ごした日々のほうが思い出として輝いている。後年、僕の試合には同期みんなが見に来てくれ、世界戦が“同窓会”となった。

 最高の環境で3年間を終え、拓大から声がかかってスポーツ推薦で入学できた。それも学費全額免除という好待遇。いよいよコンプレックスからの逆襲が始まった。



居酒屋でバイトしながら磨いた必殺「拓大カウンター」

【八重樫東氏コラム】居酒屋でバイトしながら磨いた必殺「拓大カウンター」 2022年08月06日 16時00分

拓殖大学時代に試合に臨んだ八重樫

【八重樫東氏 内気な激闘王(6)】  子供のころから内向的で、人一倍のコンプレックスを抱いていた僕は岩手県立黒沢尻工業高でボクシングと出合い、ようやく自分に誇れるものができた気がした。

 3年時の2000年にインターハイ(モスキート級)で優勝し、ボクシングの名門拓大から声がかかった。それほど有望な選手ではなかったが、当時コーチだった中洞三雄さん(現拓大ボクシング部監督)が同じ岩手県出身という縁も背中を押してくれた。驚いたことにスポーツ推薦の中でも一番優遇された枠で学費は全額免除。こんな好待遇で迎えられるとは思っていなかった。

 だが、入学してみるとボクシング以外の戸惑いの連続だった。親元を離れて初めての東京生活。大学敷地内にある体育寮はボクシング部の他に柔道部、相撲部、レスリング部も共同生活を送っており、まさに“ザ・体育会”といった男くさい雰囲気だった。門限もあり、1年生は練習が終わると掃除、洗濯、電話番、雑用など大忙し。実家暮らしから激変し、日常生活をこなすことで必死だった。茗荷谷駅の近くの居酒屋でバイトしつつ奨学金を生活費に充てた。もちろん、飲み会やコンパなど、いわゆるキャンパスライフとは無縁。それでも一度も辞めたいと思わなかった。ボクシングに没頭できる最高の環境だったからだ。

 改めて振り返ると、拓大時代の4年間でプロボクサー八重樫東の土台が出来上がったと思う。足の使い方やパンチの打ち方などボクシング技術の基礎をしっかりつくることができた。ボクサーとして大きな影響を受けた人物は、1年生の時に4年生だったライトフライ級の先輩・和才隆一さん。すごくパンチが強く、打ち方がキレイでカッコ良かった。プレッシャーをかけながら相手が打ってきたパンチを外し、カウンターを入れるスタイルに憧れ、マネをしていた。結局、和才さんはプロへ行かなかったが、僕のボクサー人生でかけがえのない“教科書”となった。

 ちなみに相手の左ジャブを外側(右)にヘッドスリップして避け、右のカウンターストレートを打つボクシングは拓大の昔からの教えだ。部員は自然とその戦法を身に付け、プロに入った後に大橋秀行会長も「拓大カウンター」と呼んでいたほど。それくらい和才さんから受け継いだスタイルは拓大の伝統だった。

 着実に実力をつけた僕は大学2年の国体(ライトフライ級)で優勝。3年生になると下級生の雑用から完全に解放され、都内近郊のプロボクシングジムを“道場破り”のような形で巡り、トップクラスのプロ選手と拳を交わすようになった。自信がふつふつと湧いてくるのが分かった。もしかしたらプロでやれるかもしれない――。


 ☆やえがし・あきら 1983年2月25日生まれ。岩手・北上市出身。拓大2年時に国体を制覇し2005年3月に大橋ジムからプロデビュー。11年10月、WBA世界ミニマム級王座を獲得し岩手県出身初の世界王者になる。12年6月にWBC同級王者・井岡一翔と史上初の日本人世界王者同士の統一戦で判定負け。13年4月にWBC世界フライ級、15年12月にIBF世界ライトフライ級王座を獲得し3階級制覇を達成。20年9月に引退。プロ通算35戦28勝(16KO)7敗。身長162センチ。


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