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岩手日報lineニュース 2021年1月28日 11:00
「10年も引退も節目じゃない。八重樫東と被災地の終わりなき戦い」
2021年1月、横浜市の大橋ジム。
緊急事態宣言下の昼下がり、誰もいないフロアで、小柄な男がシャドーボクシングをしている。
キレのよい動き。シューズが床をこする音がリズミカルに響く。
「彼はもう現役選手ではない」と言って、信じてもらえるだろうか。
八重樫東、37歳。
現役時代は世界3階級制覇の偉業を達成。「激闘王」の異名をとった伝説のボクサーだ。
八重樫はいま、トレーナーとして後進の指導に当たっている。
構えたミットが、派手な音を立てる。
その奥で光る目にもまた、現役さながらの殺気がみなぎっている。
「新しいボクサーを育てたい。僕のボクシング人生は現役だけではない」
引退の節目を迎えてなお、戦いをやめようとはしない。
その背中に、復興への歩みを止めない東北の人々の姿が重なる。
歓喜の裏で…故郷への思い
11年10月24日。
八重樫は後楽園ホールのリングの上に、大の字になっていた。
KOされたわけではない。
世界ボクシング協会(WBA)ミニマム級王者・ポンサワン・ポープラムック(タイ)との激しい打ち合いを制し、TKO勝ち。悲願の世界タイトルを奪取したのだ。
岩手県人初の世界王者に輝いた八重樫東=11年10月24日、東京・後楽園ホール
レフェリーが試合を止めると、八重樫はリングに倒れ込んで喜びを爆発させた。
ホールは大歓声に包まれ、拍手と「アキラ」コールはしばらく鳴りやまなかった。
「勇気をもらったという人が、1人でもいてくれれば幸せだ」
WBAミニマム級の王座奪取から一夜明け、記者会見で笑顔でポーズをとる八重樫東=2011年10月25日、横浜市の大橋ジム.
インタビューでそう語った新王者の脳裏には、大きすぎる傷を負ったふるさと岩手のことがあった。
リングに上がっていいのか
時をさかのぼること半年。
11年3月11日、東日本大震災が発生した。
八重樫が生まれ育った岩手は、甚大な被害を受けた。
特に沿岸部は、母淳子さんが中学校、高校時代を過ごした大船渡をはじめ、津波によって多くの死者、行方不明者を出した。
津波によって破壊された地区。がれきとなった住宅に向かい、家族の名を呼ぶ住民の声が響いた=2011年3月12日、大船渡市
その瞬間、八重樫は神奈川県内の自宅にいた。
大きな揺れにも驚いたが、その後テレビのニュースが伝え続けた被害状況をみて、ぼうぜんとなった。
大変なことが起きた――。
岩手県内に住む両親とも、いつまでたっても連絡が取れなかった。
地元のみんなは、どうしているだろうか。かつてない不安がせりあがってきた。
大津波から一夜明けた宮古市役所周辺。水は引いたが、大量の泥やがれきが残った=2011年3月12日、宮古市新川町
4月2日には日本ミニマム級タイトルマッチが控えていた。
試合があればリングに上がる。今までは当たり前のことだった。だが、大震災に加えて、3月26日に拓大時代の恩師が亡くなったショックもあった。
こんな状況でリングに上がっていいのか、ボクサー人生で初めて迷った。
被災地こそ大変なのに…
そのころ、岩手県内では自衛隊や米軍の合同部隊による行方不明者の集中捜索が行われていた。
この時点で、不明者は4500人を超えた。
4月とはいえ、北国岩手はまだまだ寒さが残っている。
被災地は気温が氷点下まで下がる。集中捜索を伝えるニュース映像からは、住民の気持ちが沈んでいる様子も伝わってくる。
ゴムボートに乗り、湾内に浮かぶ養殖棚のがれきをくまなく捜索する海上自衛隊員=2011年4月1日、陸前高田市・広田湾
だがそんな中でも、八重樫のもとには岩手から、4月のタイトルマッチに向けた励ましのメッセージが次々と届いていた。
自分たちこそが大変なはずなのに…。自然と腹がくくれた。
試合開催が決まった以上、ボクサーとして万全な準備をしなければならない。
初の快挙。得られた"実感"
哀悼の意は、トランクスに喪章を付けることで表した。
「大きな災害で大変な思いをしている人たちに、少しでも勇気、元気、希望を与えられる試合をしたい」
日本ミニマム級タイトルマッチ 8回、田中教仁にパンチを浴びせる八重樫東(右)=2011年4月2日、東京・後楽園ホール
八重樫は挑戦者の田中教仁(ドリーム)を下し、3度目の防衛を果たした。
そして半年後の10月、初の世界タイトルを手にする。岩手県出身のボクサーとして、初めての快挙だった。
「こういう立場になって、できることはいっぱいあると思う。できる限りのことをやりたい。岩手出身者が世界王者になったことを多くの人に知ってもらえれば、モチベーションになる」
王者としての第一声にも、ふるさとへの思いがこもった。
八重樫東がTKO勝ち。岩手県人初の世界王者誕生に喜びを爆発させる応援団=11年10月24日、東京・後楽園ホール
自分は被災地に元気や勇気を与えられるのか。疑念がなかったわけではなかった。
だが、チャンピオンになったことで、周囲の注目度は大きく変わった。
「影響を与えられる選手になったんだなと実感できた。頑張ってきて良かったと思った」
メディアも騒然。世紀の一戦
震災発生から1年後の12年3月。
沿岸被災地にはがれきが山と積まれ、住民は厳しい生活が依然として続いていた。
校舎が全壊した気仙小。校庭にはがれきが山積みされていた=陸前高田市気仙町=2012年3月3日
そんな被災地の人々を鼓舞するかのように、八重樫はあえて厳しい戦いを選びだす。
6月。ボクシングファンに留まらず、日本中が「その試合」の話題で持ちきりになった。
WBA王者・八重樫と、世界ボクシング評議会(WBC)ミニマム級王者・井岡一翔との王座統一戦。
井岡は、現役時代に世界王座2階級を制覇した弘樹さんを叔父に持つ。
その指導を受け、日本選手最短のプロ7戦目で世界王座に就いたボクシング界の「エリート」だ。
統一戦の調印を終え、チャンピオンベルトを肩に静かに闘志を燃やすWBA王者の八重樫東(右)とWBC王者の井岡一翔=12年6月18日
日本人同士の両王座統一戦は史上初でもあった。
いったいどちらが勝つのか。事前からメディアでも連日大きく取り上げられた。
なぜ?「強い相手に勝ちたい」
会場の大阪・ボディメーカーコロシアムには、開場前から長蛇の列ができた。
観衆は約8700人。井岡の地元とあって、井岡ファンが多かった。
だがリングに上がった八重樫には、地元岩手から駆け付けた人々の声援がしっかりと届いていた。
試合では、王者と王者の意地がぶつかり合った。
12回の激闘が終わると、満員の観衆がスタンディングオベーションで両者を迎えた。八重樫の腫れ上がった両目が、戦いの激しさを物語っていた。
0-3の判定負け。ジャッジは3人とも1~2ポイントの僅差で、内容的にも最後まで目が離せないスリリングな試合だった。八重樫は世界タイトルを獲得したポンサワン・ポープラムック戦に続いて、見る人の心をわしづかみにする戦いをみせた。
「激闘王」。
人は八重樫を、そう呼ぶようになった。
WBC王者井岡一翔に判定で惜しくも敗れた八重樫東(左)=12年6月20日、大阪市・ボディメーカーコロシアム
初の世界王座防衛戦。
それなのになぜ、難しい対戦相手を選ぶのか。そう問われ、八重樫はこう答えていた。
「強い井岡に勝ちたい、という気持ちが強い」
長く、険しい復興の道のりを行く岩手の人々に、どこかで自分を重ね合わせていたのだろうか。
初の沿岸部訪問。衝撃の光景
井岡戦から1カ月後、八重樫は被災地をようやく訪れることができた。
一関市の牧場から贈られた牛1頭分の肉を、陸前高田市の被災した住民らに振る舞うためだった。
心の準備はしていたつもりだった。
だがそれでも、被災地の現状を見た八重樫は衝撃を受けた。
「テレビで観た通りのひどい姿だった。復興にはまだまだ時間がかかる」
飛び級での「挑戦」へ
震災から2年目となる13年。
岩手県沿岸部を舞台としたNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」が、大きな反響を呼んだ。
岩手経済研究所が8月に算出したドラマの経済効果は約32億8400万円。
ロケ地となった久慈地域にとどまらず、近隣自治体や内陸部にも波及した。産直特産品の販売施設は来店者、売り上げが急増。新たな人の流れも生んだ。
東日本大震災から2年。地震発生の午後2時46分に、犠牲者を思い黙とうする遺族ら=13年3月11日、大槌町小鎚・城山体育館
少しずつ前進する被災地。
30歳になった八重樫も、歩調を合わせるように新たな領域に入った。
同年4月、WBCフライ級のタイトルマッチに臨んだ。
ミニマム級から一気に2階級を上げての挑戦だった。
「被災者を励まし続けたい」
王者はアマ時代に4戦して一度も勝てなかった五十嵐俊幸(帝拳)。
両者とも目の上を切って流血する壮絶な試合展開で、「激闘王」の声評は固まった。
計量をパスし、本番に向けて握手を交わす八重樫東(右)と王者の五十嵐俊幸=13年4月7日、東京都内のホテル
"飛び級"での世界2階級制覇。ベルトを手にした瞬間に涙を浮かべた。
打たれても、前に出続ける。
そんな戦いを終えた八重樫は、震災被災者に向けて「諦めなければ報われる。立ち向かい続けてほしい」とエールを送った。
「フライ級の相手は大きく強いが、自分が1日でも長く王者で在り続けることで被災者を励まし続けたい」
WBCフライ級王座の奪取から一夜明け、記者会見でベルトを肩にポーズをとる八重樫東=13年4月9日、横浜市・大橋ジム
「生きる伝説」あえて指名
長く王者であり続ける。
そう言いながらも、八重樫は防衛戦の対戦相手に、分のいい挑戦者を選ぶようなことはなかった。
それどころか、もっとも厳しい相手を選んだ。
14年。4回目の防衛戦の相手として、八重樫はローマン・ゴンサレスを指名した。
調印式後にポーズをとる、WBCフライ級王者の八重樫東(右)と挑戦者ローマン・ゴンサレス
ゴンザレスは当時、プロで39戦して全勝(33KO)。
アマチュア時代も含めると126戦無敗で「軽量級最強」「怪物」「生きる伝説」と称されていた。あまりの強さに、対戦してくれる王者がいないほどだった。
誰もが避ける相手との勝負を、あえて選んだ。
そんな同郷の英雄の戦いを、岩手では多くの人が仮設住宅から見守っていた。
その年の3月31日、岩手県内では大震災で発生したがれきと津波堆積物の処理が完了していた。
島越駅に到着する三陸鉄道北リアス線の下り一番列車。島越漁港では復旧工事が進む=14年4月6日、田野畑村
沿岸部を走る三陸鉄道は、被災した南・北リアス線(総延長107・6キロ)が4月6日に全線で運行再開。
津波に耐え、復興の象徴となった陸前高田市の「奇跡の一本松」の復元作業もほぼ完了した。
だが、そんな「本格復興期」に入ってなお、岩手県内では3万人以上が仮設住宅での生活を余儀なくされていた。
恒久住宅の確保は進まず、被災者生活再建支援金の申請状況からみる個人住宅の再建率は33%にとどまっていた。
捨て身の攻撃。止まぬ声援
八重樫は迎え撃つ王者の立場ながら「僕にとってチャレンジそのもの」と表現した。
言葉通り、挑戦者ながらゴンサレスに穴はなかった。
第3ラウンドに早くもダウンを奪われたが、それでも八重樫はひるまずに打ち合いを挑んだ。
両目を腫らしながら前に出る。
その背を押すように、大声援が会場を包む。ラウンド終了のゴングが聞こえないほどだった。
ローマン・ゴンサレスと激しく打ち合う八重樫東(右)=14年9月5日
劣勢であることは明白だった。終盤、八重樫は捨て身の攻撃に出た。
第9ラウンド。右ストレートがゴンサレスをとらえた。だが次の瞬間、最強の挑戦者の波状攻撃が始まった。
八重樫は力尽きてマットに沈んだ。初めてのKO負けだった。
だが諦めない戦いぶりに胸を打たれた会場のファンは、試合後も涙ながらに「アキラ」コールを送り続けた。
人生初の「屈辱」
ゴンサレス戦の直後。
八重樫は北上市の母校黒沢尻西小を訪れ、講演をしていた。
児童と語らう八重樫東=2014年11月1日
「一生懸命戦ったが負けてしまった。だが心の中には、諦めずに頑張れば王者になれるという気持ちがある」
諦めなければ夢はかなう。
戦いを通して、岩手の子どもたちにそう伝えたかった。
試合後に健闘をたたえ合う八重樫東(中央右)とローマン・ゴンサレス(中央左)=14年9月5日、東京・代々木第二体育館
八重樫はゴンサレス戦からわずか4カ月弱という強行スケジュールで、世界タイトルに挑戦した。
フライから階級を一つ下げ、世界3階級制覇を懸けたWBCライトフライ級王座決定戦。しかし、ペドロ・ゲバラ(メキシコ)にKO負けした。
人生で初めて、ボディーでダウンした。
「情けなくて涙も出ない」。ボクサーとしての屈辱を味わった。
謝罪。迷い。
地元のヒーローの挑戦を見届けようと、会場には岩手から応援団ら約100人が駆け付けていた。
八重樫は試合後、彼らに「すいませんでした」と謝罪したという。
負けたから、なのか。
あるいは、前に出続ける姿を見せきれなかったから、なのか。
ペドロ・ゲバラに敗れた試合後、観客に向かってあいさつする八重樫東(中央)
年が明けた15年1月3日。
故郷の北上市でトークショーに臨んだ八重樫は、率直に迷いを明かした。
「正直、このままボクシングを続けて良いか迷っている」
再出発。戻る気概
この年、被災地では復旧・復興に向けた大規模土木工事が本格化していた。
宮古市田老乙部では243戸が入居する高台団地の造成が進み、釜石市鵜住居(うのすまい)町では19年ラグビーワールドカップ(W杯)の競技場建設地のかさ上げに向けた準備が始まった。
のちにラグビーW杯会場となった釜石鵜住居復興スタジアムの建設地=15年3月4日、釜石市鵜住居町
野田村の十府ケ浦(とふがうら)海岸は高さ14メートルの防潮堤が姿を現し、大船渡市の大船渡湾には全国ブランドのカキの養殖いかだが戻った。
そして八重樫も、世界戦2連敗のショックをようやく払しょくしていた。
震災から4年となる同年3月「進退についてあやふやにしてきたが、もう一度世界チャンピオンを目指す」と宣言した。
5月に行われたスーパーフライ級8回戦。
八重樫は、ソンセーンレック・ポスワンジム(タイ)を2回2分5秒TKOで下し、再起戦を勝利で飾った。
1回、ソンセーンレック・ポスワンジム(右)からダウンを奪う八重樫東=15年5月1日、東京・大田区総合体育館
「盛り上がるならもう一度井岡(一翔、世界ボクシング協会=WBA=フライ級王者)選手とやってもいい」
あえて厳しい戦いを。そんな気概も戻っていた。
日本人初の「快挙」
15年12月。八重樫は国際ボクシング連盟(IBF)ライトフライ級王者ハビエル・メンドサ(メキシコ)に挑戦をした。
一進一退の攻防。中盤は相手の連打を受けて体がぐらつく場面もあった。
それでも八重樫は、足を踏ん張り耐え抜いた。判定。ジャッジ1人がフルマークを付けた完勝だった。
12回、ハビエル・メンドサの顔面に左を打ち込み、一気に攻め込む八重樫東(左)
日本人男子3人目となる世界3階級制覇。
「メジャー団体の最上位タイトル」だけに絞れば、日本人初の快挙だった。それでも八重樫はこう言った。
「記録はあくまでおまけで、強い選手と戦うことが喜びであり仕事です」
3階級制覇の偉業を果たし、妻の彩さんや3人の子どもたちと喜びを分かち合う八重樫東(中央)=15年12月29日夜、東京・有明コロシアム
翌2016年3月。震災から5年を迎えた被災地に、八重樫はメッセージを送った。
「自分のボクシングを見て、また頑張ろうという気持ちが芽生えるような試合をしたいし、しないといけない。岩手への強い思いは薄れることはないし、変わるものではない」
八重樫東選手を囲んで記念撮影する金ケ崎小の児童=16年2月2日
引退勧告も…前人未到への挑戦
頑張ろう、と思ってほしい。
その一心で戦い続けてきた。
だがさしもの激闘王も、徐々にベテランの領域に入ってきていた。
17年5月、ミラン・メリンドにまさかの初回KO負けを喫し、王座から陥落した。
1回、ミラン・メリンドの左フックを受け1回目のダウンを喫した八重樫東(左)=17年5月21日、東京・有明コロシアム
すでに34歳。大橋会長からは引退を勧められた。
だが「やらせてください」と懇願した。
すさまじい練習量で、再びリングに立つことを目指す。
それを見た大橋会長は「辞めろとは言えなくなった。心を動かされた」と振り返る。
あえて困難な道を歩くスタンスも変えなかった。
10月、2階級上のスーパーフライ級に転級し、日本男子初となる世界4階級制覇に挑戦することを表明。「前人未踏」の挑戦だった。
迫る「決断の時」
一方、被災地も次の目標を見いだす時期に入っていた。
誰もがこれまでに経験したことがない複合災害からの復興。
こちらもまた「前人未踏」の挑戦が続いていた。
鵜住居地区防災センターで犠牲になった住民の冥福を祈り、復興のまちづくりを誓う親子=17年3月11日、釜石市鵜住居町
住宅や店舗の再建が進む。
防潮堤や道路、鉄道などと併せ、「目に見える復興」のゴールが近づく。
同時に、避難生活を支えてきた仮設住宅や仮設店舗などの支援は廃止や集約に向かう。
それは、被災者が個々の生活再建と自立に向けた決断を迫られることを意味していた。
解体を前に公開された旧大槌町役場庁舎。窓や壁が壊れ、震災当時のままがれきが残る=18年6月13日、大槌町新町
まちが負った傷も深く、産業や医療、衣食住の環境は完全には戻らない。
結果として「人とにぎわいを取り戻す」という復興の青写真と、現実の乖離(かいり)も広がり始めていた。
人口減少に歯止めがかからず、なりわいの先行きが描きづらい。
そんな中で、いや応なしに全ての人に「決断の時」はくる。
八重樫の「決断」は…
18年3月、八重樫は約10カ月ぶりの復帰戦に臨んだ。
フランス・ダムール・パルー(インドネシア)とスーパーフライ級ノンタイトル10回戦を闘い、TKO勝利をおさめた。
しかし、世界4階級制覇への手応えは得られなかった。
フライ級の王座復帰に方針を転換。それでも「国内最年長でのタイトル奪取」という高いハードルを自らに課し続けた。
19年12月。36歳の八重樫は、メリンドに敗れて以来の世界戦に臨んだ。
IBFフライ級王者モルティ・ムザラネ(南アフリカ)に挑戦。途中までは互角の戦いだったが、終盤に被弾が増えた。そして9回、TKOで敗れた。
TKO負けを喫して肩を落とす八重樫東(中央)=19年12月23日
それでもまだ、やれるつもりだった。すぐにでも世界王座に再挑戦したかった。
だがこの直後、世界をコロナ禍が覆う。タイトル戦どころか、試合自体ができなくなった。
被災地の人々と同じように、八重樫にも「決断の時」が訪れようとしていた。
重なって見えた「歩調」
未曾有の津波災害からの復興という、誰も歩んだことのない道を歩く被災地住民。
年齢を重ねながら、それでもより厳しい状況に挑んできた八重樫。
震災から9年。その歩調はいつでも重なって見えた。
20年9月1日、八重樫は現役引退を表明した。
一足先に歩みを止めたように見えた八重樫だが「これは節目ではない」と首を振る。
現役引退を表明し、大橋秀行会長と写真に収まる八重樫東(大橋ジム提供)
21年の年始。
八重樫は後進の指導を終えると、リングシューズのひもをほどきながら、熱っぽく語った。
「日本のボクシングは、部活の延長のようなところがまだある気がしています。1人の指導者のやり方に大勢の選手が合わせる。そうじゃなく、個々の選手に指導者が合わせていったら、もっと選手の可能性、競技の可能性は広がると思うんです」
顔を上げ、語気を強めて言う。
「難しいかもしれない。労力もかかる。でも僕はそれをやりたい。そういう勝負をするという意味で、現役を引退しても僕は自分が変わったとは思わない」
変わり続ける
八重樫は今も、震災から10年の岩手を思う。
「被災地はまだまだ大変だと思う。被災地の方々は10年間、変化に対応しながら前に進んできたと思う」
八重樫も変わり続けてきた。
階級を変え、そのたびに頂点を極めてもきた。だが変わらなかったのは、岩手を勇気づけたいという思い。それは今後も同じだ。
「指導者としての立場に変わったことで、被災地でできることの幅も広がると思う。これからもいろいろな角度で被災地に関わっていきたい」
現役最後の試合になった2019年12月のムザラネ戦。実は八重樫は7回に左目を眼窩(がんか)底骨折していた。
モルティ・ムザラネに敗れ、リングを降りる八重樫東(中央)=19年12月23日、横浜市・横浜アリーナ
相手の右パンチはほとんど見えていなかっただろう。
それでも前に出続けた。最後まで、激闘王の名にふさわしい戦いぶりだった。
震災10年が節目、と誰もが言う。
しかし実際は、そこで何かが完結したり解決するわけではない。先も見えない。だからこそ被災地の人々も八重樫も、これからも前に出続ける。
被災地岩手は、八重樫のように不死鳥のように何度でも立ち上がる。挑み続ける。
八重樫と岩手の戦いは、これからも続く。
八重樫東(やえがし・あきら)
1983年2月25日、岩手県北上市生まれ。黒沢尻工高3年時に岐阜インターハイ・モスキート級優勝。拓大に進み、2002年の高知国体で成年ライトフライ級制覇。アマチュアで70戦56勝14敗の成績を引っさげ、05年3月プロデビュー。06年4月にプロ5戦目で東洋太平洋ミニマム級王座を奪取した。スピードが持ち味のボクサーファイタータイプ。果敢に打ち合う戦法から「激闘王」と呼ばれた。プロ通算成績は35戦28勝(16KO)7敗。162センチ。大橋ジム(横浜市)所属。37歳。
※この記事は岩手日報によるLINE NEWS向け特別企画です。
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