2020年9月24日木曜日

引退を決断する日

 https://number.bunshun.jp/articles/-/845103

Number Web posted2020/09/23 11:01


「最後は転んでゴールすると思いますよ」激闘王・八重樫東が語っていた“引退を決断する日”


全勝中のローマン・ゴンサレスと対戦し、果敢に打ち合うも玉砕。だが代々木第二体育館を熱狂させた激闘王は評価を上げた


 9月1日、激闘王と呼ばれたボクサー・八重樫東が現役引退を発表した。

 これまで多くの激闘を見せてきた八重樫だが、その中でも「KOされた日」について三浦隆司とともに、2019年に本誌で語っている。その記事を特別に公開します。

「倒された。だからこそ」

 倒す者がいれば、倒される者もいる。KOは決して勝者だけのものではない。かつて壮絶なKO負けを喫したふたりは、そこでなにを味わい、なにを見たのか。

【初出:Number990号(2019年11月14日号) <ボクシング総力取材>KO主義。「倒された。だからこそ」《八重樫東》/肩書などはすべて当時】


 拳の交錯を幾度か重ねて、八重樫東は、眼前の敵に感心していた。

「こいつ、うまいなあ」

 王者の細い目を見開かせたのは、ローマン・ゴンサレスだ。2014年9月の対戦当時、戦績は39戦全勝(33KO)。3階級制覇を期してフライ級に転向したものの、圧倒的レコードが足枷となり試合のオファーはなかなか実らなかった。その挑戦を受けて立ったのが、WBC同級王座を3度防衛中の八重樫だった。

 パンチの組み立て。距離感。防御。ボクシングのクオリティの高さを見せつけられながら、八重樫は打ち合った。ロマゴン相手の善戦に観衆も沸いた。だが――。

「周りが騒いでいるほど当たってないんですよ。柔らかいものを打っているような感じ。それが逆に怖かったりもして」

 もとより「逃げ回って判定」の選択肢は持ち合わせていなかった。

「戦前から、片道燃料で突っ込んでいくしかないだろう、と思ってました。戦争の話をしてるみたいですけど」

 勝機が見えた瞬間は「全然ない」。第9ラウンド、セコンドから「玉砕してこい」と送り出され、事実、玉砕した。

 24戦目で初のKO負けだったが、勇敢なファイトは八重樫のプロボクサーとしての評価をむしろ高めたと言っていい。なればこそ、わずか3カ月後には再起の機会が世界戦の舞台に設けられた。

引退もちらついた屈辱的なKO負け

 空位のWBC世界ライトフライ級王座を、同級1位のメキシカン、ペドロ・ゲバラと争った。徐々に優位に立ったのはゲバラだ。動きが鈍り始めた八重樫に、第7ラウンド、左のボディブローを突き刺した。

 一拍置いて、わき腹を猛烈な痛みが襲う。四つん這いになり、悶絶し、その状態のままテンカウントを聞いた。

「顔で意識を飛ばされるならまだしも、お腹で倒れて。恥ずかしかった」

 屈辱に塗れたKO負け。ロマゴン戦ほどの話題性も評価の材料もなかった。

 現役続行と引退を秤にかけた。結果、前者の側に傾いたのは、敗北の原因が明確に見えたからだ。

「(計量後の)リカバリーミスなんです。フライ級の時と同じようにすれば元に戻ると思っていたのに、そうはならなくて、試合当日のコンディションがよくなかった。自分の失敗だって完全にわかってるんだから、これを修正したらまた違う結果になるんじゃないか。その思いは拭えなかった」

 2戦連続のKO負けから歩み直すと決めた八重樫は1年後、再びライトフライ級で世界戦に臨み、王者からベルトを奪う。

 2度の防衛を経て、次戦の相手はフィリピンのミラン・メリンドに決まった。暫定王者との統一戦という形ではあったが、八重樫の勝利は固いと見る向きが多かった。

 だが、正規王者はあっけなく負ける。試合開始のゴングから3分ともたなかった。

「KO負けって、出し切らないまま終わるパターンが多い」

 今度こそ、天秤は揺れに揺れた。敗戦直後の悔しさに駆られて練習を始めたが、やがて熱は冷め、ジムに姿を見せなくなった。

 そうしてゆうに半年以上が過ぎ去ったころ、八重樫は戻ってきた。

 なぜか。ひとつには、初回KO負けという結果がそうさせた。

「KO負けって、出し切らないまま終わるパターンが多いと思うんです」

 メリンド戦にすべてを出し尽くせたかといえば、答えはノーだ。12ラウンドの戦いを見据えた準備の1割も生かせず、時が経てば「勝って当然」の空気に油断があったと思い当たった。

 遡れば井岡一翔との激闘で顔と名前を売り、ロマゴンとは真っ向から打ち合って、負けてなお八重樫は評価を高めてきた。そうしたキャリアのせいだろう、いつからかこんな思考が形成された。

「『八重樫は負けてもおもしろい試合をする。だから次もがんばれ』って言ってくれる人が多かった。その人たちに『ああ、あいつはもうダメだよ』って言われたら、自分自身の価値はなくなってしまう」

 ボディ一発でリングマットに沈められたゲバラ戦、1ラウンド終了のゴングすら聞けなかったメリンド戦のKO負けで、八重樫の価値はずいぶん薄れた。ロジックのうえでは、決断すべきタイミングだった。

屁理屈すらひねり出せない“完膚なき負け”まで

 それでも復帰を選んだ根底の理由は「ボクシングが好きだから」。ただ、さすがにそれだけでは虫が良すぎると八重樫は考え、周囲を納得させる理由をつけた。メリンド戦では、もろさを露呈した負け方ゆえ「もう壊れている」との評にさらされたが、それを逆手に取ることにした。

「そういう人たちを黙らせたい。また1ラウンドでポコンと倒れるのを見てから言ってくれ、と。屁理屈ですけどね」

 プロボクサーでいられる時間は残り少ない。そう悟っているからこそ、八重樫はわがままになった。これまで大事としてきた自らの商品価値をあえて小事とした。「天邪鬼な性格だから」と多少の強引さを承知のうえで現役生活を引き延ばし、そこに、自分のために戦う余地を用意した。

「いつまで経っても辞められないじゃないかと思われるかもしれないけど、線引きは自分でする。それがプロとしての最後の仕事だと思ってます。どんなふうになっても、最後は転んでゴールすると思いますよ」

 屁理屈すらひねり出せない完膚なき負けが終焉の合図だ。ただ倒されただけでは、この偏屈な男の心は折れない。

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