2020年1月2日木曜日

只者ではない、天才よりも、モンスター、目指すはリアルチャンピオン

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現代ビジネス 1/2(木) 11:01配信

僕は天才ではない。
2018年にバンタム級に転向して以来、5月に10年間無敗だったWBA世界バンタム級王者、ジェイミー・マクドネル(英国)を112秒で葬り、10月にはボクシング界の天下一武道会ともいえるWBSSの1回戦で、元WBA世界同級スーパー王者のファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)に、70秒でテンカウントを聞かせ、今年5月の英国グラスゴーに乗り込んだ準決勝では、IBF世界同級王者のエマヌエル・ロドリゲス(プエルトリコ)を、259秒でキャンバスに転がした。
この3試合のインパクトだけを見て、今の僕を天才だという人もいる。
もし7年前のプロデビュー時に、今のボクシングができていたとすれば、天才の称号をありがたくお受けして否定はしない。しかし、現実は、そうではなかった。
6歳で、町田協栄ジムに通っていた父・真吾の姿に憧れてボクシングを始めた僕は、小学生の頃からスパーリング大会で上級生に勝ち、第1回U-15大会で優勝。高校では7冠を獲得して、当時、日本王者の八重樫東さんら、プロのトップボクサーともスパーリングをしてきた。
いわゆる飛び級で結果を出してきたから「天才少年」とメディアに取り上げてもらうことも少なくなかった。謙遜ではなく、人よりも先に、しかも、かなり本格的な練習量に裏付けされたボクシングを始めていたというアドバンテージがあったに過ぎない。
大橋ジムにいた吉田“ARMY”真というボクサーが、昔の僕とのスパーリング風景をユーチューブにアップしていた。自分でも赤面ものの未熟な井上尚弥がそこにいた。ひとつひとつのパンチには、スピードはあって、全体的にまとまっているが、体のさばき、ステップワーク、相手のパンチに対する反応などには、突き抜けたセンスを感じさせるものはなかった。
秀才が努力しているだけ
僕には天才と呼ばれるほどのセンスがないことを、当時から自覚していた。
現在の僕の専属トレーナーでもある父は、「1万時間の法則」という原理をよく持ち出す。マルコム・グラッドウェル氏が著書『天才! 成功する人々の法則』(勝間和代訳/講談社)で紹介した概念だ。
天才になるには、それだけの努力が必要で1日8時間練習するとしても3年以上かかる。僕の感覚からすれば、1万時間で天才になれるのならば楽なもの。その1日8時間の中身がさらに問われ、限界までやったのか、考えながらやったのか、練習のための練習ではなく試合を意識してやったのか、が問題。質の高い練習を毎日、1万時間以上、積み重ね、結果が出たときに、やっと天才の「て」くらいに言われるようになるのかもしれない。
父は、メディアの取材で「天才ですね」と、ヨイショされると「尚が血のにじ むような練習をしてきたことを知らないのに、簡単に天才などという言葉を使わないでくださいよ」と冗談半分、本気半分の勢いでたしなめるときがある。
小学生のとき、拓真と2人で、朝6時に起床して自宅の近くにある公園の1周400メートルのグラウンドを月曜日から土曜日まで毎日、10周走った。中、高校生になると、自宅に、父が設置した荒縄を腕だけでのぼり、父が乗る軽自動車を押して坂道を上った。
今でも午前9時に拓真、浩樹の3人で自宅近くに集合。1時間のロードワークを欠かさない。ジャンケンで、先頭を走るリーダーを決めたりコースを変えたり、 遊び心を入れながら、夏場は、上半身裸になって走る。雨が降ればスポーツジムに場所を移して別メニュー。ジムワークでは、課題を日々の練習、スパーリング で根気強く一つ一つ解決しながら、やっと人に自慢できる技術が備わってきたと いう過程がある。
ガード、ステップワーク、カウンター。今までできなかったものが、一つできるようになれば、それが喜びに変わり、次へのモチベーションに変わり成長の2文字となる。その過程を楽しみながら、ここまできたのだ。ようやく1万時間以上の練習が染みついてきたという実感があるだけで天才とは思わない。
秀才が努力しているプロセスなのだ。
天才の定義とは
そもそも天才の定義とは何なのだ。
父は、「天才とは、中学生で五輪メダリストを倒した卓球の張本智和さんみたいな選手たちのことを言うんだ。なんで中学生が大人のオリンピアンに勝てるの?」と主張している。
16歳の張本智和選手も小さい頃から人一倍の努力をしてきたのだろう。それでも努力だけではたどりつけないステージがある。卓球とコンタクトスポーツでは競技性が異なるが、U-15のチャンピオンがいきなり五輪のメダリストに勝つようなものである。張本選手らは、そのステージに足を踏み入れている天才なのだ。
自分が考える天才の定義とは「何もしていないのにできる人。努力しないで才能をリング上で発揮できる人」。こういう人が努力すると神の領域へ向かう。
ボクシング界では、元WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎さんだろう。
デビュー時やプロ4戦目で日本バンタム級タイトルを岡部繁さんからKOで奪った試合の映像などを見ると、まさに天才だと思う。キャリアの浅い時期にああいう動きのできる人が天才なのだ。カリスマとしてファンの圧倒的な支持を受けたのも納得である。
天才よりも、モンスター
現在、ボクシング界には、ひとつの階級に4本のベルトが存在する。WBA、WBC、IBF、WBOの4団体である。ベルトの価値という点で異論はあるが、アマエリートが努力を積み、そこに運があればチャンスの訪れる時代である。天才である必要はない。WBAとWBCしか認められていなかったひと昔前のボクシング界と違い、世界王者になる機会は大きく広がっている。
しかし、本当に目指すべきは、チャンピオンの中のチャンピオン。ベルトを統一するようなリアル(真)チャンピオンにある。
問われるのは、そのために何をやるか、他のボクサーよりも考えているか、行動に移せているのか、ということなのだ。
その努力の中身がリアル(真)チャンピオンを作る。
日本の選手の中では頭ひとつ抜けているという自負はある。世界でいえば、伝統と権威のある米国の専門誌「ザ・リング」が、もしボクシングに階級がなく同じだったと仮定すれば、誰が一番強いか、というランキング「パウンド・フォー・パウンド」を設定しており、僕は執筆時点で3位にランキングされている。
それだけの評価を受けているのは光栄だ。だが、そこが目標ではない。「ああそうか」 というくらいの感想。人がつける評価には「オレは違うよ」という意見もあるだろう。求めているのは、1試合、1試合の内容と結果だ。
デビュー時に「怪物(モンスター)」というセカンドネームを大橋会長につけてもらった。リング上でコールされるとき、「モンスター、井上尚弥」と呼ばれた。正直に言えば、「井上尚弥だけでよくない?」と思っていたし嫌だった。だが、大橋会長曰く、最初から日本の枠を飛び出して海外で活躍することを念頭に置き、「海外で浸透しやすいニックネームになれば」との理由で「モンスター」を考えたという。
実際、アメリカでは「モンスター」の呼び名が定着した。NAOYA・INOUEよりも、アメリカでの認知度は上だ。今後、アメリカで試合を行っていくプランがあるなかで「モンスター」は悪くない。やはり先見の明がある大橋会長は只者ではない。天才ではなく世界中の人々に井上尚弥イコール「モンスター」と 同義語で語られるボクサーでありたい。

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