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井上尚弥が「怪物」と評した“天才アマ”は、なぜプロに行かなかった? ロンドン五輪出場・須佐勝明が明かす、23歳で一度引退した理由
杉園昌之 2024/02/01 11:00
井上尚弥が自著『勝ちスイッチ』(秀和システム)で「怪物」と評した須佐勝明。アマの天才ボクサーは23歳で一度、競技人生を引退する。その理由とは――。(Number Webインタビュー全2回の第1回/後編へ続く)
モンスターが認めた「怪物」
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かつて井上尚弥が「怪物」と評した天才アマチュアボクサーがいた。2階級で4団体王座統一を果たす「モンスター」の異名が、世界のボクシング界にとどろく前の話である。プロ入り前の高校3年生だった井上は、9歳上のその先輩に教えを請い、「第2の師匠」として仰いだという。あれから齢を重ねて、現在は39歳。2012年ロンドン五輪男子フライ級(52kg)日本代表の須佐勝明は、「師」という言葉を聞くと、照れ臭そうな笑みを浮かべていた。井上本人から直接、言われたわけではないが、人づてに耳に入れたことはある。
「そう言ってもらえるのは、ありがたいですね。当時の尚弥君は左のジャブで組み立てるときに被弾する場面もあったので、自分のパンチだけを当てるために細かいバックステップのアドバイスをしたんです。距離をうまくごまかすような戦い方を少し教えると、より相手のパンチをもらわなくなりました。もともと父親の真吾トレーナーと磨いてきたものもあり、どんどん強くなっていって」
『打たせず打つ』は須佐の信条。プロの猛者たちとスパーリングを繰り返し、高校、大学、社会人と200試合以上経験して築き上げたものである。アマボクシング界ではレジェンドと呼ばれ、センスあふれるステップワークで見る者を魅了した。
原点は「絶対にあいつらをぶっ飛ばしてやる」
幼少期から英才教育を受けてきたわけではない。福島県の会津若松市で生まれ育ち、将棋、相撲、スキー、ソフトテニスなどに興じ、中学校時代は長距離ランナーとしても活躍。会津地方の駅伝大会ではエース区間の1区を任されたほど。初めてグローブを手にしたのは、会津工業高校に入ってからだ。親友に誘われて、ボクシング部に入部。運動神経には自信を持っていたが、リングの上では勝手が違った。スパーリングで先輩たちにコテンパンにされてしまう。負けん気の強いやんちゃ坊主は、我慢ならなかった。
「絶対にあいつらをぶっ飛ばしてやると思ったんです。泣くほど悔しくて練習に打ち込みました。そうしたら、1年生の県大会、東北大会とすんなり優勝しちゃって。これは自分に向いていると思っていたら、2年時にインターハイに出場すると1回戦で敗退。そこから、本気になりました。次は絶対にインターハイで優勝してやるぞって。気がつけば、どっぷりはまっていましたね」
八重樫さんのようなボクシングがしたい
高校時代にお手本としたのは、同じ東北地区で全国的な実績を残していた2学年上のボクサー。足をうまく使い、絵に描いたようにヒット・アンド・アウェーを実践するスタイルに目を奪われた。のちに世界3階級制覇王者となる八重樫東あきら(現大橋ジムトレーナー)である。
「八重樫さんのようなボクシングがしたいなと思いました。本当にかっこよくて。自分のスタイルを築いていく上で基盤の一つになりました」
高校生の須佐にとって、インターハイ制覇がすべてだった。当時は五輪出場も、プロの世界チャンピオンになることも微塵も考えていなかった。最大のライバルは、拳闘の世界に誘ってくれた幼馴染の遠藤広大。階級こそ違ったが、同期の仲間よりも大会で良い成績を残すのがモチベーションになっていた。
「高校2年時は遠藤がインターハイのベスト8で僕は1回戦負け。3年時もあいつが優勝で、僕はベスト8でした」
後楽園ホールで試合をしたかった
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村田諒太には「絶対に舐められたくなかった」
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プロのジムから出禁になったことも
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オリンピックに一緒に行こう
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10くらいのプロジムからオファー
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ロンドンに行ける気がしてきて
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#2に続く
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村田諒太が井上に「須佐先輩に教えてもらいな」
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「須佐さーん」とかわいい感じで来る
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俺もプロへ行ったら…
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井上が本当にすごいのは…
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パンチの命中率は、ずば抜けています
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アマチュア時代には“隠れていた”井上の真価
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階級の壁は、むしろ「新たな井上尚弥が見えるかも」
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自分も違う場所で負けないようにしよう
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結局、僕はボクサーなんだな
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