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文春オンライン 2020/10/04
“ごくフツーの兄ちゃん”八重樫東はなぜ世界王者になれたのか――大橋会長が明かした進化
「人間って、これだけ変われるんだ、と思いましたね」
所属ジムの大橋秀行会長がこう語るのは、9月1日に引退を発表した3階級制覇の元世界チャンピオン・八重樫東(あきら)のこと。
「妥協しない練習をするボクサーの鑑でしたけど、最初からそうだった訳じゃないんです。16年間見てきましたが、デビュー当時のイメージからすれば誰も3階級制覇するなんて思いませんよ。正直言って、一生懸命やっているようには見えなかった。ごくフツーの兄ちゃんだったんです、アキラちゃんは(笑)」
最初のキッカケは怪我だった。07年6月、最初の世界戦(12回判定負け)で八重樫は顎を2か所、骨折してしまう。入院した八重樫のところに大橋会長は、本を持っていった。
「『これを読むことが練習だ』と言ってね。僕は現役のとき、よく本を読んだんです。プロボクサーって結構、暇な時間があるので、そこで何もしないでいたらダメ人間になっちゃうと思ったんですよ(笑)。アキラちゃんのところには自己啓発本を持っていったんですが、それを境に前向きな言葉だけ口にするようになりました。それまでは『どうせ自分なんて……』という言葉を口にするタイプだったんです。大学ではエリート中のエリートってわけじゃなかったからでしょうね」
あの試合で「ボクシングに取り組む姿勢が変わった」
怪我から再起して2試合目(08年7月)、八重樫は辻昌建選手と戦って負けている。その辻選手が翌年3月、別の選手との対戦でKO負けしてリング上で意識不明となり、急性硬膜下血腫で3日後に亡くなってしまった。大橋会長は「あれで八重樫のボクシングに取り組む姿勢が本当に変わりました」という。
「辻選手に、死んでもいい、というくらいの“気迫”でこられて、負けて、自分に足りないモノが、よくわかったと思うんです。その辻選手が亡くなってしまったわけで……。
世界チャンピオンになるような選手には最初から気迫があります。僕の大橋ジムで最初に世界チャンピオンになった川嶋勝重(WBCスーパーフライ級)もそうでした。八重樫のデビュー間もない頃、僕と川嶋と八重樫の3人でいたとき、『10億円くれたら負けるか?』って話になったんです(笑)。もちろんボクシングに八百長はありません。あくまで例え話ですが、僕と川嶋は『そんなんじゃ負けない』と即答し、八重樫の答えは『ちょっと考えます』……。僕も川嶋も、コイツはチャンピオンになれないな、と(笑)」
「やっぱり、やらせて下さい。何とかお願いします」
同年6月、八重樫は日本ミニマム級王座を獲得したが、最初の防衛戦の約2週間前、今度は目を痛めて練習ができなくなってしまう。網膜剥離の一歩手前だった。
「僕が『引退しろ。身体を壊してしまうから』と言うと、八重樫は『分かりました』。で、コミッショナー事務局に連絡して『(王座を)返上します』と伝えると『暫定、ということでも大丈夫ですよ』と言って貰えたのですが、丁寧にお断りしていたところにキャッチホンが鳴り……八重樫からでした。『やっぱり、やらせて下さい。何とかお願いします。覚悟を決めました』と言うんです」
土壇場で懇願して引退回避した八重樫。3階級制覇どころか一度も世界を制することなくリングを去っていたかもしれなかったのだ。もっとも現実は彼の覚悟を試すかの如く厳しく、第1ラウンドからダウンを喫してしまう。
「ぶっつけ本番だから勝つなら前半、と思ってましたから……ちょっと無理かな、早目にタオル投げないと……と思いました。だけど、そこから辻選手に教わった“気迫”で段々盛り返していって逆転勝ち……あの諦めない気持ち、お見事、でした」
八重樫の現役時代は怪我との戦いだった。
「怪我をしない身体を作るための練習を、最初は僕がアドバイスしてやりましたけど、あとは自分で色んなことを見つけてきて取り入れてました。たとえばサプリメント。八重樫の知識量はボクシング界随一でしょ。練習前、まるでお菓子屋さんみたいに色々なサプリメントを並べてて、若い選手から質問されると『これは~で』と、摂り方まで丁寧に説明してました。間違えたら大失敗する“水抜き”という減量の仕方も『塩分濃度が~』とか詳しくて完璧にやってましたし、それを、うちのジムでアマデビューした子にも教えてくれて、完璧に仕上げてくれてました」
“綺麗なスタイル”から“真っ向勝負スタイル”に変化
そういう、ボクシングに取り組む“意識”だけでなく、実はボクシングの“スタイル”も変わっていく。パンチを貰うことを厭わずに攻め込んでいく真っ向勝負スタイルで試合後は顔をボコボコに腫らし、“激闘王”と呼ばれていたが、最初からそうではなかった。
「以前の彼は尚弥のように足を使って相手に打たせない、奇麗なボクシングスタイルだったんです。それを、相手に近付いていくスタイルに変えていきました。日本チャンピオンになった頃には反応が鈍くなってましたから、網膜剥離で落ちた視力をカバーする意味もあったんでしょう。相手との距離があればそれだけ強いパンチが出せるけど、距離が短ければ強いパンチを出しにくい……そうやって相手の良さを消し、自分は、引き付けて強いパンチを打てるようにしていった……彼が本来やりたいボクシングではなかったはずですけど、そうやって勝っていったわけです」
腫れ上がった顔で笑いながら「はい! 楽しいです」
変身後の八重樫は11年10月にWBAミニマム、13年4月にWBCフライ、15年12月にIBFライトフライと三階級の王座を獲得した。
「華があるタイプじゃないのにファンからの支持が絶大で、戦績以上に記憶に残るボクサーでした。大橋会長が『負けた試合の方が歓声が多かった』と言ってたように、負ける姿がファンの心に響くボクサーだったんです」(ボクシング記者)
何と言っても印象的なのは、壮絶な打ち合いとなった14年9月5日のローマン・ゴンサレス(以下ロマゴン)戦だろう。
「ゴングが鳴ってインターバルに入ると観客が涙ぐんだりしてて、それまで見たことのない雰囲気でした。〈大変なことをやっちゃってるのかな〉と思ったのを憶えてます。で、インターバルで僕が『次、思い切り行け。ダメなら止めるから』と声を掛けると、彼は腫れ上がった顔で笑いながら『はい! 楽しいです』と答えたんですよ。そんな八重樫を目の当たりにして、あのロマゴンが怯んでるのが分かりました」(大橋会長)
だが結果として八重樫は初のKO負けを喫する。
「勝った瞬間にロマゴンが号泣し、まるで八重樫が勝ったような大歓声が起きたのが印象的でした」
「常に納得できる練習をしていた」
引退会見で八重樫は「常に納得できる練習をしていたから諦めない心を作ってこれた」と語っていた。ボクシング界に限らず、“諦めない心の作り方”なんてことを言い切る人間は、そうはいない。
「7月頃、ジムでムチャクチャ練習してたのを見ました。2月に会長から引退勧告されて受け入れたってことなので、引退を決めてから随分経ってた時期です。普通ならモチベーションがないはずですけどね。彼には『常に納得できる練習をしていた』という資格があるんです」(同前)
東京五輪が新型コロナの影響で1年延期となり、開催自体が未確定である今、各競技の代表選手の多くがモチベーションを保てずに苦労していて、ベテラン選手の中には引退してしまう者さえいる。八重樫のメンタルは一体、どうなっているのだろう?
「本当にやる気があるか、ないか。やる気があればモチベーション云々という言葉は出てこない、と八重樫は言ってました。僕もそう思います」(大橋会長)
“最後の試合”の翌日も練習
ボクシング記者が、こんなエピソードを教えてくれた。
「結果的に彼の最後の試合になった去年12月23日の対ムザラネ戦(9回TKO負け)の翌日も走ってて、大橋会長から『何やってんだ。休め』と言われてました(笑)。普通ならダメージを抜くために少なくとも1週間から2週間はオフですからね。彼が試合翌日から練習してたのはこのときだけじゃありません。井上尚弥が『何やってんですか』と驚いてたこともありました」
この話を大橋会長に振ると「いやいや、それは変わってからの八重樫。かつての彼は試合後、平然と2、3週間はジムに来なかったですから」と笑う。
ジムの後輩でWBA・IBF統一バンタム級チャンピオンである井上尚弥の、延期されていた世界戦が10月31日に行われると発表された。会場は、世界ボクシング界の頂点と言われるMGMグランドだ。
「尚弥は別格の選手ですけど、八重樫の存在はプラスアルファに作用していると思います。中学生のときから出稽古でうちのジムに来て八重樫とスパーリングして、八重樫の執念とボクシングへの取り組み方を長いこと間近で感じてきてますからね。もっとも尚弥が高校を出てうちのジムに入ってからのスパーリングでは世界チャンピオンの八重樫が、負けてましたけどね(笑)。
八重樫は去年の12月の試合でTKО負けした直後、リングに入った僕に抱きかかえられた瞬間、何て言ったと思います? 『尚弥なら勝てます』ですよ(笑)」
「尚弥で終わりたい」最後のスパーリング
そんな八重樫は引退発表の前月、井上尚弥選手と最後のスパーリングをしたという。
「本人が『尚弥で終わりたい』と言ってきたんです。尚弥は試合用のトランクスを履いてやってくれました。で、最後に僕が八重樫のグローブを外して『お疲れ~』。涙のない、たった数人の引退式でした」(大橋会長)
今後は後輩を育てる立場になる八重樫。自身が大橋に言わせたように「人は変われるんだ」という指導者になれるだろうか?
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