ボクシング・マガジン(毎月15日発売 ❗) 15:06 - 2017年8月31日
名門・ヨネクラジム
8月31日、最後の集合──
55年間、本当にありがとうございました。
その魂よ、永遠なれ!
https://goo.gl/1SaqJ9
現代ビジネス 2017.08.19
格闘技 さよならヨネクラジム!「日本の名門」が閉鎖を決めるまで
【ルポ】ボクシング界は、いま名門の灯が、またひとつ消える――。長年にわたってボクシング界を支えてきたヨネクラボクシングジムが、8月をもって54年間の歴史に幕を閉じることになった。東京新聞運動部記者で、「ボクシングマガジン」にも寄稿する森合正範氏が、閉鎖にいたるまでのヨネクラジムの内情を追った。
いやな予感
「はい、集まって!」。準備体操を終えると、トレーナーの嶋田雄大から号令がかかった。4月13日、東京都豊島区目白のヨネクラジム。午後5時からの全体練習が始まって5分足らずの時だった。
「あれ、おかしいな。こんなタイミングで集合することはないのに…」。プロ18戦13勝、23歳の溜田剛士は首をかしげた。まさにこれから心のスイッチを入れて、1ラウンド3分刻みの本格的な練習が始まろうとしていたからだ。
ふと、胸騒ぎがする。「最近、会長も奥さんもジムに来ていないし。もしかして…」。神妙な顔つきの嶋田の元に、練習に参加していたジム生5人が整列した。ただならぬ雰囲気がジム内を覆う。
「えっと…。ジムは今年の8月いっぱいで終わることになりました」
築48年、木造のジムに嶋田の声が響き渡った。突然の悲報にジム生の表情が一気に暗くなる。溜田の心の中はざわざわした。すでに8月22日の試合が決まっている。「えっ、オレの次の試合どうなるの」。心の中でつぶやいた。その後も嶋田はジム閉鎖の話を続けていたが、溜田の頭の中には入ってこない。
ジム閉鎖は大変な問題だ。おそらく、ニュースにもなるだろう。だが、自分に降り掛かってくる問題はより切実だ。試合はどうなるのか。次戦は日本ユース初代フェザー級王座の決定戦だ。ヨネクラジム所属の選手として出場できるのか、それともジムを移籍することになるのか。ああ、大変なことになった。長野の中学を卒業して以来、ヨネクラと歩んできたオレはこの先、どうなるのだろう…。
…
https://goo.gl/xHRCfi
現代ビジネス 2017.08.26
「最強のボクサー」を続々生み出したヨネクラ式育成術
【ルポ】さよならヨネクラジム!第二回
ボクシングの名門・ヨネクラジムが今年8月で、54年の歴史に幕を下ろすこととなった。東京新聞運動部の森合正範記者が、その閉鎖までを追うルポ。第二回目は、大橋秀行、川島郭志らを擁した、90年代の「第二次黄金期」の裏側に迫る。なぜあの時、ヨネクラジムが「最強」であったのか、その秘密とは――。
(第一回『さよならヨネクラジム!「日本の名門」が閉鎖を決めるまで』はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52597)
エリートVSたたき上げ
1980年代後半から90年代後半まで、ヨネクラジムは「第二次黄金期」を築いていた。10年の間で、世界王者に大橋秀行が2度輝き、川島郭志は6度防衛。松本好二が東洋太平洋王者となり、日本王者には個性あふれる中島俊一、古城賢一郎ら。あのころ、その20年後にジム閉鎖を迎えるなんて想像できただろうか。
ジムの壁にはチャンピオンたちの写真パネルが並んでいる
アマチュアで実績があるエリート選手だけでなく、たたき上げの選手が目立つのもヨネクラの特徴だった。それはジム内での「戦い」があったからに他ならない。
88年当時、ジム内にはエリート対たたき上げの構図があった。他のジムにはない独特の雰囲気。もしかしたら互いの対抗心を煽るため、会長の米倉健司が意図的にそうさせていたのかもしれない。
アマチュアエリートは世田谷区中町にある米倉の自宅からわずか100メートルの合宿所に住み、「世田谷組」と呼ばれた。朝のロードワークから会長が付きっきり。朝食は会長夫人の手作りが待っていて、特別扱いされた。大橋を大将に川島、松本ら高校時代からアマで全国トップの蒼々たるメンバーが揃う。
一方、それ以外のメンバーは反骨心むきだしで「世田谷組」に向かっていく。目白のジム2階にある合宿所には、元日本王者の小林裕幸、のちに相模原ヨネクラジムの会長となる幡野光夫らたたき上げの選手が、トレーナーの松本清司とともに住んでいた。大学からボクシングを始めた非エリートの中島もそうだった。エリートを目に掛けるのが米倉なら、雑草を率いるのは松本。二つの軍団に分かれていた。
現在は多くのジムで、練習生同士の仲がいい。和気藹々としたムードが漂う。当時のヨネクラからすれば「仲良しなんてくそ食らえ」となるだろう。
熱くなるのはスパーリング。まるで対抗戦かのように、大橋と中島が多い時には週に2回、3回と「大将戦」で拳を交える。大橋が左ボディーを放てば、エリート軍団は沸きかえり、中島が変則的な右で応戦すれば、雑草軍団は「そうだ、行け!」と歓声をあげる。リング上の2人とともに、周りを囲むメンバーも必死だ。声をからして「大将」へ声援を送る。これがヨネクラジムでの日常風景だった。
当時、まだ入門したばかりで、現在トレーナーを務める元日本王者の嶋田雄大は「あのころのスパーリングは戦争みたいだったな」と述懐する。ジム内のライバル意識は想像を超えていた。
大橋は当時を思い出し「もうそりゃあ、バチバチよ。全盛期、全盛期」とあまりの激しさに笑ってしまうほどだった。
「中島さんとはガチガチのスパー。向こうの応援がすごくて盛り上がってね。中島さんは4つ上の大先輩で、あちらの大将。階級が近い者同士で松本好二と古城(賢一郎)がやったりね。僕らにとってはね、試合よりスパーの方が大事でしたよ」
ファン垂涎のカードがジム内で実現する。本気で競い、殴り合う。意地と意地がぶつかり合う。威信をかけた闘いだ。だから互いに強くなっていった。大橋は続ける。
「入門したころはね、アマ王者はオレ一人だけ。周りは一切、口をきいてくれない感じですから。孤立感がありましたよ」
…
https://goo.gl/Unah34
現代ビジネス 2017.08.31
ヨネクラジムを悩ませた「会員減少」と「後継者問題」その現実
【ルポ】さよならヨネクラジム!第三回
さらば昭和の男
2017年8月22日、東京・後楽園ホール。ヨネクラジム最後の試合となった日本ユース初代フェザー級王座決定戦。溜田剛士のセコンドには嶋田、町田だけでなく、9月から師となる大橋も就いた。
溜田はダウンを奪い、3回終了TKO勝ち。勝利を告げるゴングと同時に嗚咽を漏らした。歓喜ではなく安堵の涙。54年の歴史と大きな看板を背負い、23歳が闘い抜いた。ヨネクラ37人目の王者となり、幕を閉じたのだ。
溜田のセコンドに就き、アドバイスを送る大橋
「先輩たちが一つ一つ積み重ねてきた最後の試合で負けちゃいけない。実は怖くて仕方がなかった。勝ててよかったです。これで会長の所にチャンピオンベルトを持って挨拶に行けます。でも本当に終わるのか…。まだ信じられない」
試合終了後には、会場を訪れていた元東洋太平洋王者の松本好二、西澤ヨシノリらヨネクラジム関係者がリングに上がる。大橋は「ヨネクラの魂はここにある」と言わんばかりに何度も右拳で左胸を叩いた。
そして、テンカウントゴング。通常は選手の引退式で鳴らされるものだ。日本ボクシングコミッションによると、ジム閉鎖では初めてだという。ヨネクラジムの偉大なる功績。いかにボクシング界から愛されていたのか分かるだろう。起立して目をつむる。大橋、中島俊一、古城賢一郎、川島、西澤、嶋田…幾多の激闘がまぶたに浮かぶ。乾いた鐘の音が響き渡る。寂しい。切ない。
ふと思う。療養している米倉はいま、何を思っているのだろう。胸に去来するのは何なのだろうか。ゴングの1回1回が胸に染みた。
試合終了後、リングにはヨネクラの選手、OB、関係者が集まった
昭和の激動の嵐にもまれてもチャンピオンメーカーとして君臨してきた。平成の世になっても、こびることなく、自らのボクシング道を貫いた。頑固オヤジは抗ってきた。
だが悲しいかな、時代の波にのまれ、信念は時代に敗れた。ヨネクラジムとは昭和の男・米倉健司の物語だったのではないだろうか。
…




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